ラジオ放送「東本願寺の時間」

楠 信生(北海道 幸福寺)
「今」という時 [2008.7.]音声を聞く

おはようございます。
「今」という時を生きるということは、口で言うほど簡単なことではないと、次のような指摘で教えていただいたことがあります。
それは、
若者は未来を夢見て今を失い、老人は過去に思いをめぐらせて今に立てない。
それでは壮年はというと、忙しくて今を見失っている、
というものでした。
確かに、今を生きるということは、道理としてはよく分かる話です。現実が自分にとって都合のよいものであろうと不都合なものであろうと、避けて通ることのできないことであるならば、前向きに受け止めていく。それが今を生きるということであり、そのような考え方が大切であることは、平常は十分承知していることであります。
ところが、つらいことに出あうと未来は閉ざされ、過去の楽しかったことも今の力にはならず、むしろ過去の苦しい体験が再三よみがえったりするのではないでしょうか。
かなり以前のことですが、次のようなことがお寺でありました。
お寺としては何も行事予定のない日のことです。午前10時少し前、玄関先で数人の話し声が聞こえました。急いで玄関に出てみると七・八人のおじいさんおばあさんが入って来られました。
「どうしました」と尋ねると、あるおばあさんが「Aさんが、今日はお寺でおまいりがあるって言ったので」と言われました。わたしが「今日は何もありませんよ。でもせっかく来られたのだから、あがってください」と言うと、それを聞いた当のAさんが、もともと小さな体をさらに小さくされて、皆さんに「スミマセン、スミマセン」と何度も謝っておられました。
と、その時です。いつもお参りに来られるおばあさんが、
「いやいや、日にちを間違ったくらいたいしたことない。仏法を聞き間違ったら大変だ」とおっしゃったのです。
普通は「いやいや間違いは誰にでもある。何もそれほど気にすることはない」と言うところでありましょう。その意味では、そのおばあさんの言ったことは少々角度が違うようです。
そうです。そのおばあさんの話された言葉の大切な点は、人間の記憶違いや失敗を問題にしているのではなく、もともと自分は危ういものであるという自覚に立っているということであります。問題意識が仏様の教えのうえに立っているわけであります。
わたしたちが自分の思いで、「今」という時を大切にしよう、「今」という時は二度と来ないのだからと心がけても、「今」という時が、満足できる時になるわけではありません。
話は変わりますが、80歳をすぎた老夫婦のお宅におまいりにお伺いしたときのことです。
ご主人は穏やかな方でしたが、認知症の初期で、奥さんも高血圧・腰痛・ヒザ痛と大変な様子です。ところが、その奥さんがそのような家庭の状況の中で、話されたことが大変印象的でした。それは「死ぬまで勉強ですね」という言葉です。その前にわたしが何かを言ったわけではありません。自然にその方から出てきた言葉であります。
「今」という時の、満足・不満足は、他人(ひと)の話に耳を傾けることができる、学ぶことができるというところにあるのではないでしょうか。

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