ラジオ放送「東本願寺の時間」

楠 信生(北海道 幸福寺)
いのちの自覚 [2008.8.]音声を聞く

おはようございます。
まだ記憶に新しいことと思いますが、6月8日、東京の秋葉原駅近くで悲惨な事件が起きました。ただ悲しいだけでなく、いよいよ人間不信に拍車をかけるような事件でした。なぜあのようなことをするのだろう、どうしてあのような事件が次々と起きるのであろうと、不安や怒りの言葉を耳にします。
新聞などの報道では評論家の方が、「社会全体の犯罪に対する抑止力の低下」「希望の見えない社会構造」という時代社会の背景を指摘し、いのちの大切さ尊さについての徹底した教育の必要性を説いていました。では、なぜ抑止力が低下したのでしょうか、誰が希望の見えない社会構造を作ったのでしょうか。
わたし達が、よりよい生活を求めて、高学歴志向・都会志向・他者を排除するような家庭主義などなど、とりあえずということで、画一的価値観で生きている、その時代社会のうしろ姿が、「抑止力の低下」「希望の見えない社会構造」と無関係ではない、と言えると思います。
たとえば、個人主義的意識や閉鎖的な仲間意識と結びついた向上心、つまりより優れた状態を目ざそうとする心は、そうでないものを嫌ったり貶めたりする心でもあります。そしてそのような心は、他の価値観や世界観を理解できない心、つまり想像力に欠けた心と言えるのではないでしょうか。
話が私事にわたりますが、わたしの母は30代の半ばから心臓肥大・乳がん・高血圧といろいろな病にかかりました。そのような母をよく知っている方が、或る時次のような話をされたと母から聞きました。
その方は60半ばで癌にかかるまで、健康そのもので、病気一つしたことがなかったのです。それでその方はわたしの母を見ていて、「お寺の奥さんはいろいろな病気をして家族が大変だろうなと思っていた。けれども、一番大変なのは病気をしている本人だと言うことを自分が癌にかかって分かった」と言っておられたということです。そして、その方の注目すべきことは、自分のつらさを通して他人(ひと)の苦しみに気付かれたということです。
反対に、人間として最も悲しいことの一つは、自分がつらい苦しい経験をしたときにいよいよ自分の世界に籠り自分の事しか考えることができなくなることです。
そのような人間の悲しさを問題とせず、「いのち」ということを単に肉体の生命力とか寿命という意味だけで見ているならば、どれほど「いのちは大切」「いのちは尊い」と力説しても、いったん逆境に出あえば、日ごろの常識はまったく生きていく力にならないのでありましょう。
先ほど想像力ということを申しましたが、他人(ひと)の悲しみや苦しみに対する理解に基づく想像力が重要であります。そして理解力と想像力の基礎になるのは何かと言えば、自分は他人(ひと)のことをほとんど分かっていない、自分のことも分かっていないという自覚から生まれるのであります。
親鸞聖人が尊敬されている徳の高い僧侶の一人に、中国の曇鸞大師という方がおられます。その曇鸞大師に次のような言葉があります。現代の言葉に意訳してお話します。
「わたしは量り知ることのできないいにしえから迷いの世界をめぐってきました。一瞬一瞬に作り続ける善悪の行為と結果に縛られ、人間関係や自分の存在の意味を見出せない世界にとどまっています。どうか仏様の慈悲の光がわたしを護って、わたしに道を求める心を失わせないようにしてください」というものです。いのちの無限の深さ広さの自覚は、仏さまの慈悲の光に護られる、道を求める心から開かれてくるのでしょう。

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