ラジオ放送「東本願寺の時間」

楠 信生(北海道 幸福寺)
呼びかける言葉 [2008.8.]音声を聞く

おはようございます。
あるお宅の法要の時、亡くなられた方の娘さんから質問をされました。それは「父さん、成仏してくださいと思ってお参りするのはダメでしょうか」というものです。
なかなか難しい質問です。道理から言うと、「成仏してください」と言うからには、言う人自身が仏(ぶつ)とは何か、仏さまとは何か、成仏とはどういうことなのかはっきり分かっていないと言えないはずです。自分にはよく分からないけれども、分からないものになってくださいということはないわけですから。本来は、仏さまのことが分かった人が成仏してくださいと言えるわけで、つまるところ、それを言えるのは仏さましかいないということになるわけです。
そうすると、わたしたちが亡き人に向かって「成仏してください」というからには、わたしたち自身、すでに仏となっていなければならないという問題があるわけです。
このことは、仏さまのことに限らず、そのことが何を意味しているのかさほど考えずに、言っているということがあるのではないでしょうか。
その典型的なのが、子どもに対する「勉強しなさい」という言葉です。
「勉強しなさい」という言葉自体は、それこそ間違ったことではないのです。ところが、何のための勉強なのか、勉強によってどのような人間になって欲しいのか、などの確認がないまま、「勉強しなさい」といっているのではないでしょうか。
わたし達が自分は大丈夫なものとして他者のためにと思って呼びかけるとき、それで本当に人を救ったり、前向きにさせたり、勇気づけるものとなっているのでしょうか。
かなり以前、わたしが若いときに教えられたことです。
淨土真宗のお寺では毎年、報恩講というもっとも大切な行事を勤めますが、その準備のため大勢の方が集まり、建物の中はもちろん庭もきれいに掃除します。そしてその中でも殊に大切なのは、ロウソク立てとか花瓶などを磨く、「お磨き」という作業です。ロウソク立てとか花瓶は、真鍮(しんちゅう)でできているので、真鍮(しんちゅう)磨きという研磨剤の入ったちょうどクレンザーか歯磨きに似たもので磨くのです。ところが、そのロウソク立てなどには深い彫り物が施してあるため、彫りの中にその真鍮(しんちゅう)磨きが入ってなかなか取れません。そこで、彫りの中に入った真鍮(しんちゅう)磨きをとるのに便利なのが、歯ブラシです。
ある時、例年のようにその大掃除をしておりました。そこへある七十歳位の役員さんが入ってこられました。その方はよく寺にお参りに来られる方です。その方が自分のお金で新品の歯ブラシを買って持って来て下さったのです。その時、わたしはうかつにも「新品ですか、勿体ない」と言ってしまいました。すかさずその方は、「おれらみたいなものが使った歯ブラシは仏さんのお道具磨きには使えない」とおっしゃったのです。
その言葉を聞いた瞬間、わたしは恥ずかしくなりました。立っているところが違っているのだと思いました。そしてそのようなわたしの不用意な言葉に対して、直接批判するのではなく、自分自身を通して語ってたしなめてくださった態度に、本当に仏さまに向かって生活しておられる方であると、あらためて頭が下がったことでした。
「あれをしてはいけない、これをしてはいけない。こうあるべきだ」という忠告はいただくことがありますが、自分自身、仏さまに真向かいになって道理を語られる方は、稀れであります。わたしにとって生涯忘れられない言葉の一つです。
はじめに申しました、亡くなった親に対して「成仏してください」という呼びかけには、自分自身を問題にするということが抜け落ちていると思うのです。
人間が人間に呼びかけるだけでなく、本当に自分自身を成就された仏さまからの「あなた」という呼びかけこそ、真実の慈悲と智慧に裏付けられた、わたし達を目覚めさせる道なのです。

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