ラジオ放送「東本願寺の時間」

川瀬 智(三重県 真正寺)
父母を通し、ほとけのはたらきに遇う [2008.8.]音声を聞く

おはようございます。今日から6回にわたって「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマを念頭におきながら、身近な生活の中からお話をさせていただきます。
私には、27年前の父の死後、私たち夫婦と孫2人の計4人を支えてきてくれた、81歳になる母がいます。
寺での行事があれば仕事を持つ妻に代わり、準備・行事当日・後片付け等の多くは母の仕事であり、夕飯の下ごしらえ、小さな畑にての野菜作りと、一日として働かない日は、ありません。
母は、孫にあたる私の長男の勧から「お婆ちゃんの作った野菜が、一番美味しいね」と褒められるのを後押しに、野菜作りに励みます。収穫時期になると、立派に出来た野菜の下処理の為、台所を出たり入ったり、忙しくしています。
そんな母ですから、時々、ガスにヤカン・鍋をかけたまま、農作業に夢中になります。
以前、ガスにヤカンをかけたのを忘れて、私が気付いた時、ヤカンは下のほうが真っ赤、蓋のアルマイトが変形するまで気付かず、ヤカンを丸焦げにしました。
母を呼び、「何で貴方は、懲りず何度も何度も、ヤカン・鍋などをかけたまま台所から離れる、貴方が焦がすので家にあるヤカン・鍋などは、ほとんど真っ黒じゃないの」と怒鳴ったら。
母は「もうすぐ、香里さんが帰ってくるから、すぐ湯が使えるように、ポットに入れといてあげようとして、かけて忘れていた」と言い訳するから、「いらんことせんでもいい、どれだけヤカン・鍋を、焦がしたら済む」と怒鳴ってしまいました。
それからは、母も気をつけ鍋・ヤカンをかけた時は、台所にいるようになりました。
そして、寒さが少し深まったある日、いつものようにパソコンに向かい、仏教のお話をするための資料を作っていました。すると、何かかすかに香ばしい、醤油の焦げた匂いがしてきます。なんだろうと、コンロの方に回ってみると、大きなアルミ鍋から、どす黒い煙が噴き出しています。鍋の中には、炭と化した大根が累々と並んでいます。
母を呼び、「何で大根をかけたままガスコンロを離れる!大根なんて、いつでも誰でも炊けるのに!」と言ったら、
母が「だって勧ちゃんが、味のしみた大根、美味しい美味しいと食べてくれるから、作っておこうと思って調理したんだけど、ごめんね」と、力なく言いました。
そうして、「どうしよう、この鍋、香里さんが、うどん・おそばを茹でるのに便利、と言っていた大事な鍋なのに、この鍋隠しておいて、明日、同じ鍋を買ってこようか」と相談を持ちかけます。
私は、「そんなことは隠しても駄目だ。鍋、焦がして御免ね、と謝りなさい」と言いました。
妻が帰り、母が報告したところ「確かに鍋を焦がすと駄目だし、火事になる心配があるから注意しないとね、でも、勧ちゃんに美味しい大根食べさせようとしたことは、伝わりましたよ。いつも、皆の事を、考えてくださって有難う」と言っていました。
広辞苑で「命」を調べると、その意味の一つに「もっとも大切なもの」とありました。
以前、北陸の友人から「僕の地方では阿弥陀仏様を、親様と尊く呼んできた歴史がある。今も、自然に誰もがそう言うよ」と聞いたことがあります。
親様というところには、子供の目の前の形ある父母、その父母のわが子を思う親心と、阿弥陀様が、私を救いたいと呼び詰めに呼んで下さる、阿弥陀様の心と重ね合わされて、お念仏のお慈悲を喜んでこられた歴史が、生活の中に息づいています。
そんなことを思い出した時、どれだけ私に怒られても、新鮮な野菜が出来れば調理して、家族や孫に食べさせてあげたいという母の家族を思うやさしい心を受け取れない私、鍋・ヤカン・家という物だけしか心配しない私、お恥ずかしい私を、知らされました。
まさに、私自身で「今、いのちがあなたを生きている」事実に気付かない、私であり、そのような愚かな私こそ救わずにおかんという、阿弥陀のはたらきのたのもしさを知らされました。

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