ラジオ放送「東本願寺の時間」

川瀬 智(三重県 真正寺)
役割を演じる事に疲れる意味とは [2008.9.]音声を聞く

おはようございます。「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマを念頭におきながら、身近な生活の中からお話をさせていただきます。
長男がまだ小学生の時、春休みに、妻と長男の3人で、テレビCMでよく流れていた日帰り温泉へ初めて、出かけました。
自然露天風呂と銘打たれただけに、広い敷地に多くの露天風呂があり、大きな岩や木が配置され、そこから醸し出す空間は私を、3月の超多忙な寺の仕事の疲れから解放するのに充分な癒しの場となりました。
露天風呂で体を休めた3人は、昼食の時間が近づき、3階の「大広間」で食事をする事にしました。
親子3人、それぞれが食べたいものを取り揃え、座敷机に全て並べ、「いただきます」と合掌した時、妻から「帰りの運転は私がするから、今日は充分ビールでもお酒でも飲んでリラックスしたら」とうれしい言葉をかけられました。
こんな言葉をかけられるのは、滅多に無い。しめしめと、ビールを買いに走りました。
ニコニコしながら、サー飲もうとビールのジョッキを口に近づけた時、後方から「住職、今日はなんやね」「どうしたんやね」と予期せぬ声がかかりました。振り向くと、少し私の家から離れた、顔見知りの人が浴衣姿で座り、そして、その人と連れ立った人々までが、にこにこと笑いながら、私の方を見ているではありませんか。
ジョッキを持つ手が凍ると共に、温泉にて癒されリラックスした心が凍りつきました。
そのとき、親しみを込めて声をかけて下さったとは思えず、「住職、今日はなんやね」「どうしたんやね」は無いだろう、「こんなところで年回法要はしないよ」と、やっと寺から遠く離れ気兼ねなく解放される時間を持てると思ったのに、「何処にいても疲れるな、解放されないな」と思ったとき、「ペルソナpers?na」と言う言葉を思い出しました。
「ペルソナ」とはラテン語、古代ギリシャ・ローマ時代、もともと演劇で役者がつける「仮面」を意味するものでした。
ペルソナ「仮面」は、「仮面」を着けた者の、素顔、心の内面を人目にさらさない、自分を守ることにその役割・意味があります。
現代人はそれぞれ生活の場面に応じ複数のペルソナ「役割」を生きていると言っていいでしょう。
私も僧侶として、よく評価されよう、家庭では家族が喜ぶように、外を歩けば近所の人がほめてくれるような仮面を着けているから、「一日中仮面を着けていて本当に苦しい、疲れる」と、その疲れから解放される手段として、日帰り温泉に行くことを、求めたのでしょう。
疲れるという文字は、病だれに、「皮」という文字でなりたっています。「皮」という文字は、動物の毛皮を手でからだにかぶせる様だと、教えられたことがあります。
その文字の成り立ちから、自分の欲望が求める獲物を追いかけ、その獲物を獲得して「これがわたしの獲った物だ」と誇らしげに、人々に見せている私達の姿が想像できます。
現代の競争社会にあって、私達の生活は、病的なほどに、ペルソナ、役割を演じることにより、人に評価をされ、その評価の代償を得、他者に勝ち、幸福を得ようとして身も心も疲れています。
しかし、その疲れから解放するはたらきは、私達自身の内にも、外にもありません。
役割を演じることに疲れを感じることは駄目なことではありません。
その疲れこそ、真実の満足に出会っていない、真にいのちを生きっていない「あなた」、ありのままにあなたとして、生きられる世界がここにあるよと、「今、いのちがあなたを生きている」という世界から、阿弥陀様が語りかけてくださいます。

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