ラジオ放送「東本願寺の時間」

川瀬 智(三重県 真正寺)
「狭い私」と知らされて [2008.10.]音声を聞く

おはようございます。
あるお寺で、このようなお話をしました。
漁師の網元をしていた父に、無断で作業小屋を壊し民宿を作った息子がいた。後日、初めて父が民宿の風呂に入りに来た時、息子が父の小さくなった背中を流しながら、「勝手にしてごめんナ」といった。
父が「お前は偉いな、生きとるうちに親に謝るから、俺はできなんだ。そんな親に謝る心は人間には無い、それは仏さまからいただく心だ、仏さまのお話を聞き生きてゆく、聞法者になれ」と、諭され、父を通し念仏を生活の要にして生きている方のお話しを、させていただきました。
話を聞いて下さった朋(とも)である、ご婦人から、後日手紙が来ました。
その手紙には、
「お話を聞かせていただき、思い出しました。実は、両親には、私より先に男の子が2人いて、あの頃の病気ハシカで2人が、同じ日に死んでいったのだそうです。
その2人目の産後の肥立ちが悪く、聞こえていた母の耳がだんだん聞こえなくなったそうなのです。
私は、2年後に生まれ、母の里も近かったので喜ばれ大事にされたとのことです。
そして、父親は、私が小学校へ上る頃から坐骨神経痛を病みだし、母は耳が聞こえず、父兄参観等の行事に来る母の辛さを思い、私の心は痛みました。
それ以降、母に、町内のこと、隣近所のこと、そして学校のこと、何度も言い直して伝えるのが私の仕事、役目です。年月が流れて、主人に遇い、子ども3人にも恵まれました。
そしてあれは私が、50歳前後の時、初めて母に口答えをしたのです。
その時、母が私に言った言葉
「そんなにわしが邪魔かえ、おまえ、何時まで若い。年寄らんと、思うとるやろが。たった今すぐだわ。その時には解る。忘れるでないぞ」と、
その母が75歳で亡くなりました。私は、通り越して78歳に、うるさいと思ったあの心、その恐ろしさ。今そのうるさがられる立場にいるのです。」
という手紙をくださいました。
後日、お会いしたとき、手紙の内容を話し合ったところ、
「そんなにわしが邪魔かえ、おまえ、何時まで若い。年寄らんと、思うとるやろが。たった今すぐだわ。その時には解る。忘れるでないぞ」といった言葉が、耳から離れず、命がけで産んで下さった母一人大切に出来ない「自分の狭さ」を教えられ、仏法、仏さまの言葉を聞かせていただく、ご縁になったそうです。
親鸞聖人は『浄土和讃』に、
弥陀初会の聖衆は
算数のおよぶことぞなき
浄土をねがわんひとはみな
広大会を帰命せよ
と詠われています。
「阿弥陀仏が仏におなりになられ、浄土で最初の説法の座がもたれ、そこに集った御弟子たちは、数えられないほど多数でありました。浄土に生まれたいと願う穢土、けがれたこの世に生きる人々はみな、広びろとした大きな集りである浄土のあるじの、この阿弥陀仏に照らされ、生きていきなさい。」と親鸞聖人は、阿弥陀仏を讃嘆、ほめたたえておられます。
この親鸞聖人がつくられた詞(うた)、和讃には、広びろとした大きな集りである浄土のはたらき・光に照らされて、この欲望の世界・穢土に住む私たちはいつでも自己の都合と欲と計算で集まり・関係性を狭ばめてゆくお粗末なあり方と教えられ、そんなあなたを救いたい、といういのちの叫びを、聞かれた喜びがあります。
「狭い」と言う文字は、けもの偏に、人間が自分の両脇の下に他人を入れている姿、つまり自分の支配下においている姿で作られています。
そんな「狭い」心を阿弥陀如来は、もっと大いなる限りなく広い世界に生きさせようと、自らのはたらきの名として「広大会」広大な、つまり、ひろくおおきな集まりの会と言われてみえるのです。
その光に照らされるとき、まさしく「狭い者でございました」と、そのような姿でしか生きられない私を、大いに悲しみ、救わずにおかない阿弥陀様の御本願の頼もしさが、時代社会と私の生活を通して響きます。

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