ラジオ放送「東本願寺の時間」

岸本 惠(滋賀県 敬圓寺)
いのちは誰のものか その1 [2008.10.]音声を聞く

おはようございます。これからしばらくの間、「今、いのちがあなたを生きている」という言葉をてがかりに、浄土真宗の宗祖・親鸞の教えによって「人として生きる」とはどういう意味があるのか、自分の人生を見つめ直す機会をもてればと思います。
浄土真宗の宗祖・親鸞がお亡くなりになって2011年が750年目ということで、3年後には宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が執り行われます。東本願寺の御遠忌テーマに設定されたのが「今、いのちがあなたを生きている」です。この御遠忌テーマにしたがって私がお伝えしようという事柄として「いのちは誰のものか」というお釈迦さまの伝記に記されている言葉が思い当たりました。
物語は、或る日、少年のお釈迦さまが従弟の提婆達多(だいばだった)と一緒に森に遊びに行かれた時のお話です。提婆達多は折から森の上を悠々飛んでいる鳥を目ざとく見つけて、早速、持っていた弓に矢をつがえ、はっしとばかり射放ったのです。鳥は飛翔の力を失い、ばたばたと森のかなたに落ちて行きます。二人の少年は早く鳥を手にしようと、鳥の落ちたと覚(おぼ)しき方に駆け出します。この後、二人の少年は鳥を自分のものと主張し、結論が出ず、国中の賢者を集めて意見を聞いてみることになります。二人の主張を支持する者は二つに分断し決着がつきそうにないとき、ある賢者がこういいます。「すべていのちは、それを愛そう愛そうとしている者のものであって、それを傷つけよう、傷つけようとしている者のものではないのだ」と。そして鳥の傷を手当てして助けようとしたお釈迦さまの手に帰っていったというお話です。
私の寺では、夏休みの間、ラジオ体操の後、本堂に小学生を集めて、「正信偈」という親鸞の作になる詞(うた)を練習する場を開いています。毎年、6年生の子に詞のはじまりの発声役と?(かね)たたきを当番制で受け持ってもらいます。ところが今年は5人いる6年生のうち3人が「当番だからよろしくね」とお願いしても「前にでるの、はずかしくて嫌」と、発声役を拒絶するという事態になり、しかたなく子ども達の代わりに私が発声役をしました。子どもをとりまく環境の変化を考えさせられる出来事でした。
ゆとり教育ということで週休2日制になり、子ども達は空いた時間にスポーツ少年教室や塾など予定がびっしりで、寺で遊ぶ子どもがいなくなりました。下級生と上級生が遊ぶことはなくなり、上級生が下級生のリーダーになり導いていく機会がなくなったようです。上級生が下級生の見本を示す必要がなくなり、自分の気にいらないことは嫌と言えば通るような風潮ができあがったように感じます。
お釈迦さまの伝記が教えたのは、いのちは自分のものと私有化した提婆達多のものではないという事柄です。子どもを愛しているから塾にスポーツ教室にと教育をつけさせようとするのですが、すべての時間を親が独占していることに気が付いていないかのようです。子どもの時間の私有化です。大人に自分の時間を先回りされ、自分で自分の時間を作りあげる能力が鍛えられていない。社会の風潮は子どもをどう教育するかに力点がおかれているのですが、逆に「子どもの時間を独り占めしていないか?」と子どもの自立を妨げる親の、子離れの問題を指摘する主張は少なく感じます。青少年犯罪によく見かけるのが、よい子の息切れです。一から十まで全部、親が用意した世界で、期待に応え続けることに息切れをおこす。「よい子、よい子」と親の掌の上で期待に応え続け、それが重荷でつぶれていくのです。自分の子どももいつまでも自分のものと私有化できないし、その子の年齢にふさわしい子離れを上手にしていく関わり、それがお釈迦さまの願われた家庭の姿だと思います。しかし反抗期という時に遭遇して、はじめて子どもに干渉しすぎて、自立しようとする芽をつんでいる、そういう自分の姿に気付いていくしかないように思います。
いのちを愛そう、愛そうとしているつもりが、逆に傷つける結果に陥ってしまっている。そのからくりを仏教の教えを通して、いっしょに考えていければと思います。

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