おはようございます。先週「いのちは決して私のものではなく、それを愛そう、愛そうとする者のもので、傷つけよう傷つけようとする者のものではない」との、お釈迦さまの少年時代のお話を紹介しました。鳥を射落とした提婆達多(だいばだった)という少年が「しとめたのは俺だから、鳥のいのちは俺のものだ」と言い張る姿に、私自身の姿を見つけた、そんな出来事がありました。
私が31歳の時に先輩のお寺で行事が勤められ、「私の寺でお説教をしてくれ」と言われました。私が初めて人の前でお説教をした時の体験です。日頃から酒を飲んだりして仲良くしてくれていた方で、鉄工所を営まれているKさんがその事を聞きつけて、「君がお説教するなら聞かせて欲しい」と言われました。いざ、その本番となった時、誰よりも一番前で、じっと私の目を見つめながら座っておられます。よく知った友達とか家族の前で講演をすることほど話しづらいことはありません。何せ、私が準備したこととは有名な先生方の講演録を自分のノートに書き写し、聞いてくれる聴衆にうけそうな話をコピーしたに過ぎないからです。ノートに書かれた内容は先生方の御苦労のたまものであって、それこそ汗と涙の体験記です。決して自分のものではありませんから、聞いておられる方と目を合わせられず、ノートを棒読みしているだけのお説教で、冷汗を拭いながらの長い時間が空しく過ぎていきました。お話しが終わった後、すぐさま私をつかまえたKさんはこう言いました。「お前の話は誰も聞いとらんかった。あくびして皆、寝とったわ」と。その言葉にカチンときたものの、相手は年配の方でしたから、黙りこくってしまいました。
それから10年くらい経ってある先生の講義で次のような親鸞作の和讃という詞(うた)を紹介されました。
南無阿弥陀仏をとなうれば
他化天の大魔王
釈迦牟尼仏のみまえにて
まもらんとこそちかいしか
(現世利益和讃)
現代語訳は「南無阿弥陀仏を称えるなら、他化天という天上界にいる魔王がお釈迦さまの前で、仏教を守り伝えていく事を誓います」となります。正確には他化自在天といいますが、他人の苦労したものが化けて自分のものに、自由自在に私有化が可能な世界です。この詩に出会った時、私の話を「あくびして皆、寝ていた」と言われた意味が、やっとうなづけたのです。私がお寺に集まった人々にしようとしていたのは仏教の言葉を駆使して「若いのに良いお話ができるしっかりとしたお坊さん」という評価が欲しかったのです。家の事情で嫌々なった僧侶であったが、一般の人がなかなか勉強できない仏教を学んで、他の人よりも立派な人間になった錯覚をしている自分に気付いてなかったのです。いつのまにか天上界の住人になっていたのです。お説教を聞いておられる皆様は、仏教用語に触れる機会がないだけなのに、「仏教も知らないくせに」と上から目線で考えている私でした。それこそ、昔、自分が一番なりたくない人間に、この自分がなっていたのです。「紆余曲折あったあなたが、どうして僧侶になる決意ができたのか、そんな生身の人間を正直に語ってほしい」そんな願いを私にかけてくれている人がいたのを分からなかったのです。
そして仏教を妨害している自分を知る事こそが、南無阿弥陀仏の六字のお念仏が我々に届いた証しなのだといわれる親鸞と出会っているような感動を覚えたのです。いのち・仏教・お寺とあらゆるものを自分の物だと勘違いして、狭い世界の人間に満足するなと、そんな私たちを励ましてやまない言葉、それが「南無阿弥陀仏をとなうれば」と詠われて、親鸞がすすめた南無阿弥陀仏なのです。