ラジオ放送「東本願寺の時間」

岸本 惠(滋賀県 敬圓寺)
いのちは誰のものか その3 [2008.10.]音声を聞く

おはようございます。仏教はお釈迦さまの教えです。お釈迦さまの教えを伝えようとした人は無数にいました。その一人が浄土真宗の宗祖・親鸞ですが、その親鸞のお釈迦さまとの出会い方は、独自な出会い方をされた人でした。親鸞の作になります
南無阿弥陀仏をとなうれば
他化天の大魔王
釈迦牟尼仏のみまえにて
まもらんとこそちかいしか
(現世利益和讃)
という詞(うた)を前回、ご紹介しました。現代語訳は「南無阿弥陀仏を称えるなら、他化天という天上界にいる魔王がお釈迦さまの前で、仏教を守り伝えていく事を誓います」となります。釈迦牟尼仏はお釈迦さまのことですが、魔王はお釈迦さまの悟りを最後まで妨害し、お釈迦さまは「仏教なんか広めることはつまらないからやめろ」と誘惑されても、魔王を打ち負かして悟られたと言い伝えられています。しかし、親鸞は仏教を妨害している魔王に自分を見たというのです。仏教を妨害している者が仏教を伝える事など道理としてありえません。何を親鸞は伝えようとされたのでしょうか。
仏教を気軽に語れる飲み屋さんを経営しているA君という親友がいます。彼は、幼少から強い弱視であったため、かっこうのクラスのいじめの対象でした。勉強がよくできた彼は、「いつか俺をいじめた奴らをいじめかえしたい」と、有名進学校に入学します。しかし秀才の集まりのなかでは、結局落ちこぼれてしまいました。何もできぬまま家に閉じこもる日々が続きました。「何をやっても人に負けるみじめな人生なら生きていたって仕方ない」と、高校を休学し死に場を探すような毎日が続きました。母親の知人を通じて出会った先生に救いを求めました。先生は彼に「君はかけがえのないいのちを生きている。そのことを忘れて、つまらない考えに縛られているのではないだろうか。君が苦しんでいる原因は、自分が弱視だということではないはずだ。それなのに、そのことを自分の苦しみの原因にして、かけがえのない自分のいのちを生ききっていないことこそ、君の苦しみのほんとうの原因ではないんだろうか。」と言われました。
いじめかえす人生の空しさに気付いた彼は「十代のうちに大切な事に気付けてよかった。人間関係で悩む人のために、仏教を伝えていく仕事がしたい」と、人生の目標が決定したのです。
親鸞は仏教を妨害していた自分の姿と向き合った人だと言いました。自分を正当化するための選択肢をあれこれ動員して、仏教までも利用して人より優秀さを誇ろうとする。そんな自分と徹底して向き合い続けたのでした。仏教を妨害している者が仏教を伝える事など道理としてありえません。なぜなら自分のしている事はいいことだと思っているから、どこまでも妨害を止められないのです。しかし仏教を妨害している者と気付いた人は逆です。自分のことを恥じて、同じ過ちは二度と繰り返さないようにと思うものです。
もしA君が成功の人生で終わったなら、天上界の住人・魔王のような自分に気付けず、うらみをはらすだけの人生だったかもしれません。その空しさに気付かせてくれたのはつまずきです。
親鸞より前の仏教は学問したり、修行を重ねる事で、人間性を高めることが肝心だとされてきましたが、親鸞は人より勝れたものを持つ事で、人を見下す種が芽を吹き出す、そういう煩悩からは決して離れることなど不可能なんだと言われるのです。親鸞においても仏教に関わりながら、なんらかのつまずきの経験があったと想像します。煩悩を始末することが仏教だと言われた社会常識をひっくりかえした言葉が、
南無阿弥陀仏をとなうれば
他化天の大魔王
釈迦牟尼仏のみまえにて
まもらんとこそちかいしか
という詞に込められた意図だったのです。人生のつまずきを縁として、いのちを傷つけようとしている自分に向き合い続ける人のことを、浄土真宗の門徒と言ってよいかと思います。

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