おはようございます。今回から6回にわたり、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」をもとにお話させていただきます。第1回は「今という時」の題でお話しさせていただきます。
私たちの日常の生活と時間とは大変深い関係にあるといえます。たとえば、仕事が何時から始まるので何分前には家を出なければいけないとか、そのために何時に起きて何々を準備するなど、時間を中心にした生活が日常となっているようです。「時間に追われる」「時間を持て余す」という言い方もあります。
その私たちの生活に深い関係をもつ時間ですが、2つの時間がいわれています。一つには、過去から未来へと一定速度、一定方向で機械的に流れる時間です。これは人間が想定した時間なのですが、そのように想定された時間のなかで予定を立て私たちは生活をしています。このような時間は、ギリシャ語を使って「クロノス時間」といわれています。
それに対してもう一つは、同じくギリシャ語を使って「カイロス時間」といわれます。この時間は速度が変わったり繰り返したり逆流したり止まったりする、人間の内的な時間といわれています。内的というのは、嬉しいことや悲しいことなど精神的なことを意味しますから、時間というよりは、「時」がふさわしいかも知れません。流れていく時間を超えて、いつまでも心に刻まれつづける時が、私たちの生活のなかには少なからずあります。
この「時」には、「機会(チャンス)」という意味もあります。そうしますと、出遇いの時ということができます。人生において決定的な意味をもつ出遇いの時です。
そのような出遇いの時のことを、仏教では「三摩耶時(さまやじ)」といわれています。人生において決定的な意味をもつ出遇いの時である「三摩耶時」は、お経のなかに「一時仏(ひとときぶつ)」と説かれている、そういう「時」のことであると教えられます。それは、仏さまの法を説く時と、私たちがその法を聞く時との因縁が和合して、時機が熟した時ということです。
そうしますと、この「三摩耶時」という時は、仏さまとの出遇いの時ということになります。仏さまとの出遇いの時、それは私たちの邪まなものの見方が破られる時、私の姿が教えに照らされる時ですから、真実の自己との出遇いの時ということになります。
『仏説観無量寿経』というお経があります。その始めに、息子であり皇太子である阿闍世(あじゃせ)が、父であり国王である頻婆娑羅(びんばしゃら)王を殺そうとする悲劇が起ります。そして、その間にあって苦悩する母であり妃である韋提希(いだいけ)夫人の姿が説かれています。韋提希夫人と頻婆娑羅王は、それまでに幾度となくお釈迦さまの説法を聞いておられます。しかしながらお釈迦さまのことを、「仏さま」とは見ていなかったのでしょう。他人事のように聞いていたのかも知れません。しかし今、深い苦悩を抱えた時に、初めてお釈迦さまに対して、「仏さま」として出遇うことができたのです。そして韋提希夫人の救済が説かれていきます。
このお経に丁寧な注釈書を書かれた中国の善導大師というお方は、「一時」という言葉について、「仏さまの教えは常に十方衆生に開かれているのです。しかし、この私がその仏さまの教えの鐘を扣(たた)かなければ、その教えに尋ねることがなければ、その教えがこの私に響いてくる時は決してないのです」と教えてくださいます。
私たちはものごとに対する答えをもってしまいます。だから行き詰まり暗くなってしまうのでしょう。行き詰まることのない明るい世界は、問いをもつ時に開かれてくるのであると教えられるのです。
親鸞聖人は、ご著書の『和讃』に「金剛堅固の真実の信心が、私たちに定まる時を、阿弥陀如来は待っておられ、その時、阿弥陀如来の慈悲の光明が私たちを摂(おさ)め護って、永く迷いの世界から解き放たれるのです」と教えておられます。