おはようございます。第4回は「いのちのモノ化」の題でお話しさせていただきます。
「勝ち組」「負け組」という言葉があります。最近使用されるその意味は、国際社会に負けない強い国をつくるため、規制を緩和して大いに競争させようということのようです。
競争社会は能力を競争しているといえます。会社では、能力のある者は居ていいが、能力のない者は辞めてくださいということです。ですから能力があるのかないのか、役に立つのか立たないかの価値を競争することになります。
石川正一君は、全身の筋肉が萎縮して身動きできなくなる筋ジストロフィーであることを5歳の頃宣言されます。14歳を迎えた夏、父親と一緒にお風呂に入ったとき、勇気を出して「自分は何歳まで生きられるのか」と聞きます。そして父親から20歳位までしか生きられない事実を知らされるのです。その14歳の時に書いた詩が、『めぐり逢うべき誰かのために―明日なき生命の詩』(1982年、立風書房)のなかに紹介されています。
- たとえ短い命でも
- 生きる意味があるとすれば
- それはなんだろう
- 働けぬ体で
- 一生を過ごす人生にも
- 生きる価値があるとすれば
- それはなんだろう
- もしも人間の生きる価値が
- 社会に役立つことで決まるなら
- ぼくたちには
- 生きる価値も権利もない
- しかし
- どんな人間にも差別無く
- 生きる資格があるのなら
- それは
- 何によるのだろうか
- 23歳7ヶ月の若さでその生涯を終えた正一君が、
- どんな人間にも差別無く
- 生きる資格があるのなら
- それは
- 何によるのだろうか
と私たちに問いかけています。この問いに私たちは何と応えてあげられるのでしょうか。
今、人間は、競争社会の役に立つのか立たないのかの価値で測られる「モノ」になっているのではないでしょうか。性能の良いモノ、性能の悪いモノとして選別されるのであれば、それは商品です。いのちの商品化です。それを「物象化」といいます。字は「物」と現象の「象」を書きます。人間の諸能力、また人間と人間との関係が、商品や貨幣などのモノと同じく扱われることです。物神崇拝とかフェティシズムともいわれます。
しかし、むしろいのちのモノ化、いのちの商品化は当然ではないかと考えられているようです。いのちが商品として売買されているのです。
12年前アジアのある国へ行った時、「子供が誘拐されるのです。臓器を手に入れるために」と聞いて驚いたのですが、2006年4月22日の『朝日新聞』に、厚生労働省研究班の最終報告として、その国では「腎臓1個の提供で4人家族が10年間生活できたり、起業資金を得たりすることができる」と報じられていました。また、死刑囚の臓器提供がある国のことですが、「提供しない場合は葬式を行うことができないなどの状況がある」とも報じられています。同じ報告によりますと、調査した年には、アジアや欧米などの海外で522人もの日本人が移植を受けているということです。
「脳死体」という言葉があります。ある定められた基準で脳が不能となった人を死体と見なしてしまうことですが、なぜそのようなことがいえるのでしょうか。哲学者の池田晶子さんは、『魂を考える』(法蔵館、1999年)のなかに「百歩譲って、「人の生」とは「脳の生」と認めるとして、やがて臓器移植の必要はなくなるだろう。なぜなら、臓器が死んでも、水槽内で脳のみ生きているなら「人」、のはずだからである」と、その矛盾を簡明に指摘されておられます。
親鸞聖人は、ご著書の『教行信証』のなかに「餓鬼道は常に飢えて貪っている。だから常に競争して奪い合っている。その姿は人のようであり獣のようである。その餓鬼道に落ちる原因は、強者に対しては諂(へつら)い、弱者に対しては誑(あざむ)き、真実に背いているからである。それはかけがえのないいのちを生きている姿とはいえない。それはかけがえのないいのちがモノと化した生きる屍なのです」と教えておられるのです。