ラジオ放送「東本願寺の時間」

宮本亮環(新潟県 榮恩寺)
第2話 生きるちから [2008.11.]音声を聞く

おはようございます。第2回は「生きるちから」の題でお話しさせていただきます。
今、日本の国は世界に冠たる長寿国になったといわれています。日本人の平均寿命は男性が約80歳、女性は約86歳で男女合わせると世界第一位ということのようです。
しかし、その一方で自殺者は10年連続で3万人を超えています。昨年は3万3千93人の方が自死されたという報告が警察庁から出されています。実際には、その調査の数字には出ていないもっと多くの方々がおられるともいわれています。
自殺者が多い今の時代について、作家の五木寛之さんは、『いまを生きるちから』(2008年、角川文庫)のなかで「日本人のいのちが軽くなったからじゃないでしょうか」「それは、こころが乾いているからです」と簡潔な言葉で明快に表現されています。そして「乾いたこころ」がつくりだす「いのちの軽い時代」を根本的に考え直す必要があると提言されておられます。
「乾いたこころ」の逆は「みずみずしいこころ」といえるでしょう。そうしますと、私たちは「みずみずしいこころ」を見失って生きていることとなります。それはどうしてなのでしょうか。長く生きられることは有り難いことですが、しかし、その人生において生まれた意義や生きる喜びを見出せないのであれば、それはとても空しく悲しいことです。
私の地元では、僧侶を中心に「いのち」をテーマにした公開講座を20年間つづけています。その講座に昨年(2007年)お出でいただいたNPO法人ライフリンク代表の清水康之さんは、自殺に追い込まれる人のいない「生き心地の良い社会」を目指して活動されています。紹介いただいた資料のなかで清水さんは、「社会的に弱い立場にいる人たちが、過労やパワハラ、多重債務や介護疲れといった社会的要因によって、日々自殺に追い込まれている」「自殺に追い込まれていく個人だけでなく、人を自殺に追い込む社会をも対象とした総合対策」が必要であると指摘されます。
また、自殺まで考えて悩み苦しんでいる人や残された遺族の悩み苦しみを、どのように共有できるのか。共有できる場を開こうとする運動が広がっていることをお聞きします。
「お寺は風景でしかなかった」といわれて久しいのですが、しかし、実は、そういう悩み苦しみを共有できる場として浄土真宗のお寺があるのです。さまざまな悩み苦しみを抱えた人がお寺のお参りに集い、共にお念仏の教えを聞き、そして共に抱えている悩み苦しみを語り合いながら、生まれた意義と生きる喜びを確かめ合ってきたのです。
自殺された人の七割が一人で悩む傾向があるといわれているのですが、一人で悩むのでなく共に悩むことができたのです。そして生きるちからをいただいたのです。それが「御同朋・御同行」といわれているお念仏の教えをいただいた人々に開かれた世界です。
どうして悩み苦しみを共有し分かち合うことができるのか。どうして生きるちからをいただくことができるのか。それは阿弥陀如来をご本尊とする世界があるからです。
浄土真宗の家庭にある仏壇を「お内仏」というのですが、以前に、「嬉しいことも悲しいこともお内仏で報告したものです」ということを聞かせていただいたことがあります。それは一人であっても一人ではないということなのではないでしょうか。そこには仏さまとなられた父母や親鸞聖人や蓮如上人、そして阿弥陀如来がおられるのです。
『仏説無量寿経』というお経には、「もろもろの衆生において、視(みそな)わすこと自己のごとし」―私たちの苦悩を、阿弥陀如来そして菩薩方は、自身の苦悩とされておられると説かれています。そして親鸞聖人は、ご著書の『和讃』に「阿弥陀如来が本願をおこされたお心を尋ねてみると、あらゆる苦悩の衆生を見捨てることなく、念仏を衆生に施すことを第一とされて、大悲の心を成就されたのです」、「その阿弥陀如来の本願に出遇えた人は、人生を空しく過ぐることは決してないのです」と教えておられます。

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