ラジオ放送「東本願寺の時間」

宮本亮環(新潟県 榮恩寺)
第5話 2つのいのち [2008.12.]音声を聞く

おはようございます。第5回は「2つのいのち」の題でお話しさせていただきます。
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」が発表されたとき、中学生と小学生2人の3人の息子を呼んで、このテーマを聞いてもらいました。上の子2人は何もいわずに首を横にしています。すると下の小学校1年生になったばかりの子が、「ぼくは、ぼくの<いのち>を、いま、いきている」と大きな声でいったのです。その時の3人には、御遠忌テーマがピンとこなかったようです。
考えてみますと、「今、いのちがあなたを生きている」は、呼びかけの言葉としてあります。私に向かって「あなた」と呼びかけています。ですから、この言葉を聞いた私たちには、「今、<いのち>が<わたし>を生きている」という意味で受けとめられることになります。そうしますと、その逆に「今、<わたし>が<いのち>を生きている」と思っている場合に、この御遠忌テーマを聞くと、おかしな言葉として響いてくるのではないでしょうか。
「寿命」という言葉があります。「寿命」は「<いのち>のある間の長さ」のことです。「<いのち>のある間の長さ」は「長さのある<いのち>の長さ」ですから、有限な<いのち>、必ず終わっていかなければならない<いのち>、私たちの<いのち>のことをいいます。それに対して「無量寿」という言葉があります。量ることができない<いのち>です。この「無量寿」は「阿弥陀」の漢訳名ですから、「無量寿」を阿弥陀の<いのち>ということができます。
そうしますと、「いのち」という言葉には2つの意味が込められているようです。一つには「寿命」という私たちの<いのち>、二つには「無量寿」という阿弥陀の<いのち>です。
本願寺8代蓮如上人が「黄金を掘り出すような書物である」とまでいわれて大事にされた『安心(あんじん)決定(けつじょう)鈔(しょう)』という書物がありますが、そのなかには次のように記されています。
「幼い何も知らない時の<いのち>も、阿弥陀のお<いのち>なのですが、幼いときは知りません。すこし利口になって、自分の思いで「わたしの<いのち>」と思っている時に、すでにお念仏の教えをいただいておられる人から、「もとの阿弥陀の<いのち>に帰りなさい」と教えてくださるのをお聞きして、無量寿仏に帰依すると、「わたしの<いのち>は、すなわち無量寿です」と信ずることができます。それを正しいおもい(正念)に立つというのです」
ここに、「阿弥陀の<いのち>(無量寿)」と「わたしの<いのち>」の二つが対比されています。そして、もともとは「阿弥陀の<いのち>(無量寿)」を生きているのに、自分の思いで「わたしの<いのち>」と思い込んでいるといわれます。それはどういうことなのでしょうか。
私たちの<いのち>は、縁のなかに存在する<いのち>です。父母を縁として生まれ、その縁が尽きれば終わっていく<いのち>です。そして、それは私の思いのままにはならない<いのち>でもあります。しかし、私たちは「わたしの<いのち>」と思い込んで生きています。
それに対して、もともと「阿弥陀の<いのち>(無量寿)」を生きているとは、どういうことなのでしょうか。親鸞聖人は最晩年のお手紙に、「阿弥陀如来のお誓いの要は、はからいを離れ南無阿弥陀仏と仏さまをたのむ人を迎えとり、この上ない仏さまにさせようとお誓いになったことです。この上ない仏さまとはすがた形はありません」「本来すがた形がないわけを知らせようとして、とくに阿弥陀仏と申し上げるのです」と教えておられます。
そうしますと、私たちが「わたしの<いのち>」と思い込んでいる<いのち>とは、「この上ない仏さま」になることを願われた<いのち>であったのです。そして、そのことを私たちに先立ち願いつづけ、「わたしの<いのち>」と思い込んで生きている私たちに知らせつづける手だてが阿弥陀仏―「阿弥陀の<いのち>(無量寿)」なのであると教えておられるのです。
御遠忌テーマは、「今、阿弥陀の<いのち>(無量寿)があなたを生きている」と、私たちに呼びかけている言葉として受けとめることができるのではないでしょうか。

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