ラジオ放送「東本願寺の時間」

宮本亮環(新潟県 榮恩寺)
第3話 業縁のいのち [2008.12.]音声を聞く

おはようございます。第3回は「業縁のいのち」の題でお話しさせていただきます。「業縁」という字は、職業の「業」と、ご縁があるないの「縁」を書きます。
「加害者」「被害者」という言葉があります。加害者は害を加えた方で被害者はその逆に害を被った方ですが、加害者が被害者であり被害者が加害者であることがあります。
数年前に妻が夫のいのちを奪い遺体を棄てたという悲惨な事件がありました。遺体から直に被害者が特定され、事情聴取を受けた妻は犯行を認め、夫婦の関係がだんだんと擦れ違うようになり、口論のとき夫から顔を殴打されて鼻の骨を折られたといいます。そのような夫婦関係に行き詰まり、ついに思い余って夫を殺害したということです。
夫は間違いなくいのちを奪われた被害者です。しかしまた妻に暴力をふるった加害者でもあります。妻は間違いなく夫のいのちを奪った加害者です。しかしまた夫から暴力をふるわれた被害者でもあります。そうしますと、加害者と被害者とに単純に分けることはできなくなります。どちらも加害者であり被害者であったということがいえます。
さらにいいますと、加害者も被害者もどちらも人生における被害者といえるのではないでしょうか。なぜなら、互いに傷つけあって生きているすがたに気づかせてもらうことができなかったからです。『仏説無量寿経』というお経には、このような私たちの在り方を「自害と害彼と彼此(ひし)倶(とも)に害する」と教えています。私たちは自分を害し、他者を害し、お互いが共に害しあって生きているといわれるのです。
そしてまた、このような私たちの在り方を「罪悪深重」と教えられます。私たちの身にもっている罪と悪の深く重いことですが、罪悪とは、自分が生きるために、他の人生をさまたげずにはおれぬということです。それによって仏さまに背き、自分の本来のすがたを見失っていると教えられます。そうしますと、私たちはこの夫と妻を加害者か被害者かに単純に分けて裁くことはできないのではないでしょうか。
小説家の山本周五郎さんが書かれた時代小説に『赤ひげ診療譚』(1959年、文芸春秋新社)という本があります。そのなかに「罪を知らぬ者だけが人を裁く。罪を知った者は決して人を裁かない」という言葉が出てきます。婚約者の裏切りに失意し、出世コースと裏腹に養生所での不本意な勤務になった保本登は、貧しい患者から慕われる名医赤ひげ先生の自分を立直らせた辛抱強さや、貧しい人たちに対する限度のない愛情を感じていきます。そして保本登の心のなかに、この言葉が響いてくるのです。
赤ひげ先生は、「おれは盗みをしたことがある、友を売り、師を裏切ったこともある」と保本登に告白しています。その罪の意識が、赤ひげ先生の他者への限度のない愛情ある姿になっているのではないかと保本登は感じてくるのです。
『歎異抄』という書物のなかには、親鸞聖人のおことばとして「害を与えてはいけないと思っていても害してしまうことがあるのです。そうなるべき業縁があればどのような行為をもしてしまうのです」と教えています。「業」とは私たちの生活行為のことです。身体的動作や言語活動や意思のはたらきをいいます。そして、それはすべて縁に随って起こっているので「業縁」といいます。さまざまな行為が縁のなかにあるのですから、私たちのことを「業縁的存在」といいます。
さらに親鸞聖人は、「悪重く愚かな人を救うために五劫という長い時間をかけて思惟された阿弥陀如来の本願をよくよく尋ねてみれば、ひとえにこの親鸞一人を救うためでありました。だから、多くの罪業をもつこの身を助けようとおもいたってくだされた本願のありがたさよ」と常におおせになられたというのです。なぜならば、「私たちが、この身の罪悪の深いことも知らず、阿弥陀如来の御恩のたかいことをも知らないで迷っていることを思い知ってもらうためなのです」と教えてくださるのです。

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