おはようございます。第6回は「回心するいのち」の題でお話しさせていただきます。「回心(えしん)」という字は、回転の「回」と「心」を書きます。
インドに「栴檀(せんだん)」といわれる香りの良い木があります。栴檀は発芽の頃から早くも良い香りがあるので、「栴檀は双葉より芳し」という言葉にもなっています。この言葉はまた、大成する人は子供の時から並はずれてすぐれているという意味で使われたりもしています。お香に使われる白檀がこの栴檀のことです。そして能(よ)く病を治すといわれています。
お釈迦さまは、父親である浄飯王(じょうばんおう)に、阿弥陀仏を念じて、その名を一心に称(とな)える「念仏三昧」を勧められます。しかし浄飯王は、他にもすぐれた修行方法がありそうなのに、どうして念仏なのか疑問に思い、「念仏の功徳とは、どのようなものか」と訊ねます。この問いに対して、お釈迦さまは喩えをもって教えを説かれます。
そのお経のなかに、栴檀とは反対に悪臭の非常に強い「伊蘭(いらん)」という木が出てきます。花は紅色で美しいのですが、花や実を食べると苦しみ死んでしまうといわれる木です。その伊蘭の悪臭漂う広大な林のなかに、たった1本の栴檀の木があって、その芽が成長してわずかに姿を現わしはじめると、その栴檀の芳しい香が、ついにこの広大な伊蘭の林の悪臭をすっかり変え、すべてをよい香りにしてしまうのです。そして見るものはみんな不思議な思いをいだくのです。これが念仏の功徳なのですと説かれています。
そして、迷いのなかに生きる私たちが、阿弥陀仏の本願念仏の功徳に出遇うとき、かならず浄土に往生し、一切の悪を転じて広大な慈悲の心を起こすのです。それは1本の香り高い栴檀の木が、広大な伊蘭の林の悪臭を変えてしまうのと同じことなのですと教えておられます。伊蘭の林は、私たちの身に具わる貪りと怒りと愚痴の3つの煩悩や、数えきれない多くの罪に喩えられています。そして栴檀は念仏の功徳に喩えられています。
親鸞聖人は、ご著書の『教行信証』のなかに「もっともすぐれた功徳をそなえた南無阿弥陀仏の名号は、悪を転じて徳となす正しい智慧なのです。しかし、それは私の思い(自力)では信じがたいこと(難信)なのです」と教えておられます。その私の思い(自力)では信じがたいことが、しかし事実として私たちに開かれていることを、「見るものはみんな不思議な思いをいだくのです」と、お釈迦さまは教えておられるのでしょう。
その私の思い(自力)が、不思議にもひるがえされることを「回心」といいます。親鸞聖人は、『教行信証』のなかに阿闍世(あじゃせ)の「回心」について丁寧に引用されておられます。
阿闍世王は、父を殺し母をも殺そうとした人です。しかし、阿闍世王はやがて、その自らの行為に苦悩し、心も身も重く病むようになります。母がどのような薬を塗ってくれても治りません。ついには亡き父が天空からの声となって、お釈迦さまに出遇うように勧めてくれます。そして、ついにお釈迦さまと出遇うことのできた阿闍世王は、これまでの自分の行為を初めて懺悔(さんげ)し、「回心」することができたのです。
阿闍世王はいいます。今初めて、伊蘭の種から栴檀の木が生えてくることを知りました。伊蘭の種とはこの私のことであり、栴檀の木とは、この私の心に、根がなくて芽生えた信心―「無根の信」でした。根がないというのは、今まで仏さまを敬うことを知りませんでしたし、教えも教えをいただて生きている人々をも信じたことがありませんでした。これをさして根がないと申しました。もしこの私が、世の人のさまざまな悪心、悪い心を破ることができるのでしたら、つねに地獄にあって、地獄の世界を生きている人々を救うためにはどんな苦悩を受けても、それを苦しいとは申しません。このようにいわれるのです。
念仏の功徳は、悪を転じて徳となす正しい智慧をたまわることと教えられます。それは苦悩する私たちが、共に浄土往生を願って生きる世界をたまわることではないでしょうか。