ラジオ放送「東本願寺の時間」

佐々木 祐玄(新潟県 光善寺)
第1話 茶飲み話の中で [2009.1.]音声を聞く

おはようございます。
お寺に住んでおります私の普段の仕事といいますと、月参りです。午前中に4軒から5軒の命日参りをするというのが日課です。
待っていて、いっしょにお参りをしてくださる方々は、大部分の方々が私と同年輩か、あるいは先輩です。それでお参りが終わるとお茶をいただいて少しおしゃべりをします。
少し旧聞になりますが、関東で70代のおじいさんが、息子やその家族を殺すという事件が報道された直後のことでした。ある家の同年輩の方が、こういわれます。「そらけどもさあ、どういう考え方してるんだろうね。おれなんかも、やっぱり、時々忰(せがれ)や嫁が小面憎くって、頭の一つも張り付けて、怒鳴りつけてやろうかと思うこともあるけどさあ。孫んなるとさあ、憎まれ口いわれたり、頭を一つや二つたたかれても、あっつー、イタターというくらいでさあ、怒鳴り声どころか、目んなかへ入れても痛くないと思うんだよね。」
わたしはそれに応えて、
「ウーン、その人がどういう人かわからんけれどもさ、だれでも、いっとき頭にくると、人間なにするかは、自分でもわからねっけねえ。おれだってさ、忰の嫁あ、外国人だろう。ときどき頭んきて、怒鳴りつけて、あっ!しもたって思うっけね。」
というと、その方は、
「またまたそんなこという、だいたいおめさん、甘いんだって。おれなんかさあ、息子や娘、育てるときはさ、両親がまだまだがんばっていたもんで、今思うと赤ん坊の泣き声が、銭稼いでこい、銭稼いでこいと聞こえてよお、女房と2人で、無我夢中で稼いでの子育てだろう。両親送って、ほっとして、孫の顔見たら、これがまあ、可愛いんだ。こんなん殺すなんてえのは、おれには考えられないね。」といわれます。そこでわたしは、「ウーン、でもね、忰夫婦が今必死に稼いで、無我夢中になって育てている、その孫が、なんでそんなに可愛いんだろうね。子育てに何でおめさんらが、そんげ無我夢中になったんだろうね。その殺人を犯したという人にも、70代という年齢を聞けばさ、俺達と同じ様にさ、無我夢中で子育てしたり、孫が可愛いということがあって、いままで家族として生きていたんじゃないろかね。」と応じました。その方は
「まあ、そういってしまえば、そりゃそうなんだろうけどさ、でも、こんなのは特別だよ。」といいます。わたしは、
「ウン、そうかもしれんけどね、おれだって、子育てんときは、おめさんと同じで、無我夢中だったし、嫁もろうときなんかは、おめさんも知っての通り、外国人がお寺へ来るってんで大騒動だったろう。こりゃ、ふんどし締め直してかからにゃと思った。でもさ、不思議なのはさ、何でこの俺が、子育てに夢中になったんだろうね、嫁取りにふんどし締め直してかからにゃと思ったんだろうね。」と応えました。その方は
「そりゃ、人間だからだよ。人間誰しもそうだと思うよ。」とおっしゃいます。私も続けて、
「でもさ、誰しもそうだという人間が時々頭に来て、忰怒鳴ったり、嫁叱ったり、おれやおめさんが、もし特別になったらどんなになるろかね。」
茶飲み話にこんな会話が続きます。
わたしたちは日頃は自分の考えや経験、知識だけで生きています。
しかしそのように生きている私どもも、ときどき自分の考えや経験、知識を超えて、人間の「いのち」そのものに気づかされることがあります。私どもが何の気なしに生きている事実の中に、人間の「いのち」をはたらかせる力が埋め込まれているのでしょうか。
もし、そんな事実に出遇ったならば、何としてもそのことを信じて生きて行きたいと願わずにはおれません。
「長居したね。じゃあ、また寄せてもらうよ。」
「待ってるよ、親が毎日していたお念仏を呪文みたいに考えていたけれど、こうして親鸞聖人の書かれた正信偈を読めるようになってみると、これは「教え」なんだね。来月も待っているっけね。」

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