ラジオ放送「東本願寺の時間」

佐々木 祐玄(新潟県 光善寺)
第5話 耳が教えてくれたこと  [2009.2.]音声を聞く

おはようございます。
毎月のお参りに伺うと、こんな風に会話が始まることがあります。
「お忙しいのに、日を変えて悪かったね。でもね、2階が会場で、エレベーターもないと聞いたので、私、ことわったんですよ。」
こんな時は焦ってはいけません。よく聞いてみれば、ご命日参りを今日に変更してもらったのは、集落の方々と一泊の温泉旅行を予定していたからだが、その旅館にはエレベーターがなく、会場は2階ということが分かった。
自分は脚と心臓が悪いので、幹事の方が心配して「どうする」といってくれたので、今回は旅行に行かないことにした。
だからご命日でもいいことになったのに、こちらから連絡しないでしまって、今日お出でいただいて悪かったですね。ということなのです。
お参りのあと、時間があって、お茶をいただきながら聞くことができたので、理解できたのです。
人間は今一番話したいことを、自分の思いで語ります。聞く方は自分の関心事を基にして聞こうとします。誤解や行き違いの多くは、そんな時に起こり、時には取り返しのつかないことにもなりかねません。
私の一番上の兄は平成7年2月、筋ジストロフィー、いわゆる筋萎縮症が原因で亡くなりました。
満59歳、約6年間の闘病の末でした。亡くなる一年くらい前のことでしたでしょうか。もはや、ものを持つことはもちろん飲み込むことさえ困難になった状態 で、車椅子に支えられ、目で打つワープロを使って、真宗の信者であるご門徒の方への通信文を作ることが生活の中心になっていた時機でした。
そんな兄を実家に見舞ったとき、その春から京都で結婚生活に入った兄の長女が電話をしてきました。用件は実家に置いてある住所録の中からある人の住所を調べて教えて欲しい、というものでした。
兄嫁は「ちょっと待ってて、」と調べに行きました。私の隣にいた兄は私に向かって何か一生懸命話そうとするのですが、筋力の衰えた口からは言葉にならない音がでるばかりです。しばらくして用件も済んだので、先ほど兄が何を話そうとしたのか、兄嫁に聞いてもらいました。
50音の文字盤を使って、一字一字確認しながら、全体を読みとるのです。先ほど兄が話そうとした言葉は「電話は、こちらからかけ直せ」というものでした。京都からの電話料を考えての思いやりなのです。私はそんな兄の心には思いも及びませんでした。
「観音さま」は、世間の苦悩の声を耳で聞くのではなく、見ればたちどころに知って、その人に寄り添う方なので、世間の苦悩の音を観る菩薩、「観世音菩薩」と名づけるのだそうです。
音は耳で聞き取って、その意味を理解し、その理解に基づいて、人は行動を起こすものです。けれども、声に出すとき、その声に先立って、喜怒哀楽に包まれた 要求があります。その悲しみや苦しみの要求が発せられる音を見る、声になっていない要求に応える働きを「菩薩」というのでしょうか。
そういう意味では、私たちは皆、「菩薩」ではありません。声にならない声は聞くことができませんし、形にならないものは見ることができない存在です。それどころか、耳に入る声を聞こうともせず、目に映るものを見ようともしないものです。
それが自分であったと気づかされてはじめて、どのような方々との出遇いにおいても、その人を仰いで拝見し、その人の言葉を真摯に傾聴し、その人に対して敬いの言葉で話す、という世界に入ることができるのでしょうか。
話すことのできなくなった兄の目と耳と、その存在が教えてくれたように思います。
その兄の13回忌を終えた昨年のお盆、小学4年になった私の孫娘が、こんな詩をお寺にお参り下さった方々の前で披露してくれました。

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悲しい人生。
人生は一秒ごとに消えてゆく。
今の自分を生きること。 
人生は一秒ごとに消えてゆく。
今の自分を生きること。

人はそれぞれ生まれ変わり、死に変わり、「いのちの歴史」を受け継いで、今、「いのちはかりなし」と呼びかけられつつ、自分の番を生きているのでしょう。

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