おはようございます。
満66歳の誕生日が過ぎて、名・実ともに前期高齢者といわれるようになりますと、老眼と物忘れがひどくなってきました。
探し物をしに書斎に入って、はたと、何を探しに来たのか忘れて、しかたなく元の場所まで戻って、そうだったと気が付くことがよくあります。
僧侶という名の人生を送っているつもりの私も、日常はいつも自分の都合をたて、自分の思いを満たすという暮らしをしています。
その日常が思い通りにいかなくて、つい怒ったり、捨てぜりふのような言葉を吐いてしまった時、何でこんな風になってしまったのかと、自分自身が悲しくなってしまいます。
そんな時、はっと気が付いて、僧侶としての原点、「教え」を聞いた自分の場所に帰ることがあります。
一つは、小学校5年生の頃でしたでしょうか。自尊心ばかり強くて、喧嘩っぱやい私は、下校時、ささいなことで友達と喧嘩になり、ついには、その相手の友人に石を投げたのですが、運悪く、その投げた石が、ある家の玄関のガラス戸に当たって、ガラスを割ってしまいました。当時はガラスそのものが相当高価でありましたので、その家の人は、私を寺まで連れてきて、弁償してくれるように母に告げたのでした。
父は留守でしたが、私は青ざめて、これは大変なことになったと父の雷が落ちることは覚悟していました。帰宅した父は、事情を聞くと何もいわずに私を連れて、その家にお詫びに行きました。
明治生まれで、若くから住職の職にあって、だれからも怖がられていた父が、その家にあげさせてもらって、畳に手を付いて、深々と頭を下げ、「私のしつけが行き届かず、まことに申し訳ありません。お詫び申し上げます。この子にもこの通り謝らせ、2度とこんなことをさせませんので、今回はお許し下さい。また、弁償のことは出直してまいりまして、ご相談させていただきたい。」
私はすくみ上がる思いで、畳に頭をすりつけていました。帰り道「お前があの場から逃げ帰らないで良かった。」とぽつりといった言葉を忘れることができません。
もう一つは、中学3年生の時でした。私は5人兄弟の下から2番目の3男坊に生まれました。当時この地方では、長男は「あんにゃ」と呼ばれ、跡取り息子としてそだてられ、次男は「もしかあんにゃ」と呼ばれ、もしかの時の兄という位置づけで育てられました。
それでしたら、3男坊は「もしかもしかあんにゃ」ということになるはずでしょうが、実際には「3男坊はいらん坊」といわれていたのです。
そんなことが引き金になったのでしょうか、いわゆる第2反抗期に入っていた私は、父のいない留守を見計らって、「俺の意見も聞かないで、3男坊に産んで、元へ戻せ!」と母にくってかかったことがあります。多分、もっといろんな無理難題を母に向かっていったのでしょうが、そのことはよく覚えていません。
その時、母は、怒りまくっている私の前に座って、畳に両手をついて、「ごめんね、しげまるさ(しげまるは私の幼名です)、お前の意見も聞かずに、お前を産んで、ごめんなさい。許してください。でもね。お前達5人の子供に恵まれて、貧乏と苦労はついてまわっているけれども、誰一人亡くなることもなく、生きていてくれて、私は本当に幸せだったよ。ほんとうにありがとう。」
あの自信に満ちた顔は、私がそれまで見てきた母の顔ではありませんでした。
人間の生まれや性格は、自己選択できません。私たちは、生まれ出たときから、自分探しの旅をしているのでしょうか。「あれがよい」、「これがよい」と自己選択できない自分の都合に合わせようと、出来合いのものを自分に着せようとしているのですが、結局、出来合品は自分には合わないようです。
本当に自分にぴったりというものを探していると気づいたとき、それぞれの「いのちの歴史」のなかに、確かなヒントが息づいているのではないでしょうか。