おはようございます。
アテネと北京のオリンピックで金メダルを取った北島康介選手のコーチは平井伯昌(のりまさ)さんです。
『日経パソコン』2008年10月27日号に「データからは読み解けない『可能性』を見つける」という表題で指導の秘訣が紹介されていました。
それによると、「本人の理解度や性格を見ながら」、「データを見て、そこから選手にうまく泳がせるのが、コーチングで一番大切なこと」であり、「結果を出すための指示をすることであり、結果自体を指示することではない」ということです。
いわれてみれば至極当然なことなのですが、実際はなかなか気づかないことです。私も三条真宗学院という、真宗大谷派の住職になるためにも必要な、教師資格取得を目指す学びの場で、指導という立場にありますが、どうしても結果を、あるいは答えを指示してしまいます。
今から40年以上前のことですが、私には忘れることのできない記憶があります。
私が大学在学中のことで、当時2番目の兄は、大谷専修学院という一年間で大谷派教師資格を取得できる学校の事務職をしていました。
その時代の学院長は信國淳(あつし)先生でした。今日の大谷専修学院の基礎は信國先生によって築かれたといっても過言ではないと思います。今からおよそ50年前の親鸞聖人の七百回御遠忌を前に学院に招かれた先生は、「呼応の教育」、「如来の呼びかけに応じる人となる」ということを掲げて、仏教の教えを生活の根本に置く学びをすすめられていたのだと思います。
貧乏学生の私は、時々、次兄のところに夕ご飯をご馳走になりにいくだけで、隣棟にお住まいの先生からご指導をいただいたことはないのですが、今日、私が曲がりなりにも僧侶の格好をして、真宗の信者であるご門徒の方に仏教とか真宗とかをお伝えしようとしているベースに信國先生のお姿とお言葉があります。
当時、大谷専修学院は京都市五条高倉の、高倉会館のなかのオンボロ校舎兼寄宿舎が学院でした。
先生の方針で、院長就任以来、学院生は全員、その寄宿舎で寝食を共にするという学舎でした。先生のお住まいは校門脇の建物で、夜10時の閉門、朝5時の開門は先生自らなさっていました。ですから、私も帰るなら10時前に校門を出ないと泊まりになってしまいます。
あるとき、この10時が過ぎて先生が門を閉められた直後、外出していた学院生が帰ってきて、大声で先生に門を開けてくれるように頼んだのですが、先生は決められた時間が過ぎたのだから開けてやることはできないと告げられました。多分閉門から十分も過ぎていなかったろうと思います。私も出られなかったので、やむなく兄のところに泊まることにして、「何とまあ、非情な先生だ、歳を取るとみんな頑固でこうなるんだろうか。」と兄に話しますと、兄嫁は「それは大変、先生は今日も廊下泊まりだわ。風邪を引かないように毛布とアンカがいる」といって準備を始めました。
生徒を追い返した先生は、門脇の部屋の廊下に座布団を敷かれ、一晩中お待ちになっておられたのです。翌朝、門を開けられた先生は、朝のお勤めに間に合うように帰ってきた学生達になにごともなかったように、「おはよう」と声を掛けられていました。私は身震いする思いで、その一部始終をみつめていました。
またあるとき、指導の先生方に、指導についてお話になっているのを聞いたことがあります。先生は、
「学生から質問されたとき、決して答えを言ってはならない。もし、答えを言えば、それはあなたの得た答えなのに、学生はそれが答えだと思って、それを覚えて、問うということをしなくなる。ここでの質問は徹底して、質問した本人からどうしてその質問がでてくるのか、その質問の元になっているものをあきらかにするように指導して欲しい。そのためには、我々も常に自分に問いをもっていなければならない。」
「結果が全て」といわれるこの頃だけれども、今という結果に立つとき、私の「いのち」に私の思いを超えた大いなる力が働き、はかりないご縁をいただいて、生きているのだと気づかされます。