おはようございます。今朝は「やわらぎのこころ」と題してお話しをさせて頂きます。
「和を以て貴しとなす」という言葉を見たり聞いたりしたことがあると思います。ご存じのことと思いますが聖徳太子のことばでありまして太子のお姿はかつて紙幣に登場していたことをご記憶の方も多いことと思います。太子は今から1400年ほど前の西暦で申しますと622年の2月22日がご命日で、御年49歳であったとのことです。太子は摂政いわば天皇の補佐役、として国政を助け、その業績は数多くあります。国の内外にわたってその業績を見ることができますが、外交面では遣隋使、遣唐使を大陸におくる派遣事業、国内では寺院の建立をはじめ、政治経済全般にわたり多くの事業を展開しました。太子31歳の時、日本で最初となる十七条憲法を制定しましたが、それこそ仏教の精神による政治を願われ、第一条に「和を以って貴しとし、忤(さか)うること無きを宗とせよ」と宣言されたことです。
覇権争いが絶えなかった状況に心を痛め、人間関係の回復をひたすらに願いこの条文ができたことでありましょう。「和をもって」の和は平和の和であり、やわらぎ・やわらかな・調和のとれたという意味があり、料理にあえものというのもこの和という字を当てています。浄土真宗の開祖・親鸞聖人はやわらかなるをもってと読まれています。また聖人は聖徳太子を和讃という歌の中で「和国の教主」と呼ばれています。日本にお生まれになったお釈迦様だと申しております。
「忤うること無きを宗とせよ」とはそむき逆らうことのない様にということで、では何に背き逆らうことなのかといいますと、この世の全ては縁によって生まれているんだよという教えに背き逆らうことを言ってあると思います。
ところで聖徳太子は別の呼び名に“うまやどの王子”とか“豊聡耳(とよとみみ)皇子”などがありますが“豊聡耳皇子”には注目させられます。耳がポイントになります。私が小さい頃に聞かされていたのは聖徳太子は10人の声を一度に聞くことができたということでした。人間にそんなことができる訳がないと思っていましたが、人の言うことにしっかり耳を傾けた人であったということでしょう。では、聞くということはどんなことをいうのでしょうか。
聴くということについて、哲学者の鷲田清一さんは『まなざしの記憶――だれかの傍らで』(2000年、阪急コミュニケーションズ)と題した本の中で「聴くというのは相手の言葉をきちんと受けとめることである」と書かれています。
この文章を逆に受けとめてみますと、私達は相手の言葉をきちんと受けとめることが出来ていないということになる様です。では何故そうなるのでしょうか。私達は自分の思いをもって聞くということが、前提としてあるということです。人様から相談をうけたりしますと、自分のもっている答えをもって応じなければならないと思ってしまうものです。実はそれが問題なのでないかと思います。同じ本の最後の方にある文章から教えられますのは、自分が他者に身を開いていないで、いつも身を守ることになっている、そんな私の生き方が問われてきたことでした。
人に寄り添い、身を傾けるということは本当に難しいことだと感じさせられました。
いろんなお寺で仏像に接する時に耳がとても大きいことに気づかされます。何処までも苦悩の人間に寄り添い、本当の優しさと悲しさを秘めた和らぎの心を人間に受けとめてほしいと仏様は願っているのです。
理知・分別の心をもって生きる人間の有り方を深く悲しむ心、その心から、いのちの世界が開けてくるんだよと、呼びかけられ、教えられている様に思うことです。