おはようございます。今朝は前回に引き続き「つながるいのち」と題してお話をさせて頂きます。
私のお預かりのお寺では毎月第2土曜日の午前8時半から土曜寺子屋を開設しています。以前は日曜日にしていましたので日曜学校と呼んでいました。20数年前までは30人を越える子供たちでとても賑やかな集まりでした。徐々に子供の数が減少し今は数人の子供が集まる寺小屋となっていますが、続けることの大切さを感じています。
ある時の寺子屋で海と陸の境は、際はどこにあると思う?という質問をしました。子供たちはわれ先に近くの知っている海岸の名前をあげました。ある子供は砂浜ですと答えました。質問が、どこにあるかという問いかけだったので場所のことを考えた様でした。どれも場所という一部分を答えてあるのです。トンチ話で答えれば海と陸の、「と」という1文字にあると答えることもできます。1人の子供がそれは波打際ですと答えました。干潮であれ満潮であれ、確かに言い当てている様ですが、それでも部分的です。どうも質問自体に問題がある様に思ったのでした。対応する言葉があって初めて成り立つのが海と陸であり、双方はつながりにおいて成り立つことを学ばせてもらったことでした。
お釈迦様は、生まれること・老いること・病になること・死すことという四つのことで、今、生きている身の事実をとらえ、そのことを四つの苦、四苦として教えてあります。この身をかかえているということが苦であり、心がこれを受け止めるときに悩むということが始まるのでしょう。私たちはこの苦悩をどう乗り切るかと悪戦苦闘の人生である様です。日ごろの心から申しますと苦悩は厭うべきこととしてとらえ、その後に楽がやってくると思ってしまいます。一方を排除しては他方は成立しないわけですから苦のとらえ方、受け入れ方に問題があるように思います。
どんなに楽になったとしても、それがどれだけ続いたとしても結局は苦の原因を作っているに過ぎないのではないでしょうか。楽ばかり続きますと退屈ということを免れないようです。
この身をかかえている限り、さけられないのが苦なのでしょう。この身とともにあるのが苦悩なのですから、苦悩のない人生は無いことになります。苦悩あればこそ老病死するいのちが輝きを放ってくるのでしょう。苦悩が輝きをなくす原因ではないのです。
生と死を合わせて“しょうじ”と読みますと一生涯のことを言ってあり、仏教は迷いととらえます。迷うといってもただ道に迷ったという様なことではなく、いのちのつながりを無視して、それぞれの思いを間違いないものとして生きていることが迷いであり、その事実に気づくことが今求められているのです。
『阿弥陀経』というお経に、いのちを共にしている鳥が登場して参ります。どんな姿をした鳥かと申しますと、胴体は1つで頭が2つある鳥だそうです。生きるのがとても大変だろうなと想像できます。飛んでいく方向を別々に主張していては飛ぶことができません。また片方がもう生きるのが嫌だといって毒を口にしたのでは他の一方も生きられなくなります。個々の生きかたはそれぞれですが、大いなる願いが共有されていることを語られている様に思います。いのちはひとつということを教えてくれてあるのでしょう。
科学万能主義や経済至上主義に傾倒するのも、また体験主義もいのちを無視せざるをえなくなり、迷いの生きかたになるのかもしれません。つながるいのちから新しいいのちが誕生してくるのでありましょう。
ことしの新年早々、「いのちの重みを噛みしめて毎日を過ごしています」と添え書きされた年賀状を頂きました。一昨年結婚した若いご夫婦に赤ちゃんが誕生したのです。祖父にあたる方からは「いのちのかがやき、満ち満ちて」とありました。つながるいのちを実感したことでした。