おはようございます。今朝は「いのちのさけび」と題してお話をさせていただきます。
春分の日を挟んで前後3日間を春の彼岸といいます。太陽が真西に沈み、昼と夜の長さが同じになる。また寒さ暑さも彼岸までと、いろんな言い方で彼岸を表現しています。お寺では彼岸会といって法要が勤まります。では彼岸ということは何を教えているのでしょうか。考えてみたいと思います。真ん中の春分の日を中日といいますので、どうもこの中日、真ん中ということがポイントになる様です。真ん中とは偏っていないということですが、それを人生に置き変えてみますとどうなるのでしょうか。どちらにも都合のいい様に生きる、つまり是でも非でもないという生き方なのか。そんな生き方は人間にはとてもできないことです。どちらかに偏る生き方が人間の在り方であるようです。
日ごろ、相手と話をしていてとことん咬み合わないことが起こります。第三者が双方の意見を聞きますと、一方が明らかに非があると思える場合はそれ以上問題にならないのですが、双方とも間違いがない様に聞こえることがあります。そうなると面倒になってきます。そこには双方の立場をもとにして話をしている訳ですから、いわば立場を主張している訳です。だからどこまで行っても平行線のままです。問題が共有されて初めて対話なり歩み寄りの余裕がでてくるのでしょう。もともとこの世はいいか悪いか、損か得かといった利害関係で互いが生きております。利害が生じない時は穏やかでいられますが、日ごろの生活に利害が生じますと、立ち所にこころ穏やかでなくなります。そのように分別する心を理性ともいいますが仏教ではその元をなしているものを煩悩といってあります。
我が身を煩わせ、心を悩ませる働きをこの身にすでに備えられているのです。ですからちょっとやそっとでは分別する生き方から離れることは出来ない訳で、分別しないということになれば、無感動、無感覚という生き方を免れないということにもなってしまいそうです。偏りのない生き方とは偏り続けている私の有り方に深く気付くことの他にない様です。考え方生き方の根拠に間違いがありましたと、表明できる私となることだと思うのです。
人間はかつて大変な間違いを起こしました。それは戦争です。大量虐殺の20世紀といわれ、とても悲しくつらい歴史をつくってしまいました。その事実に目をつぶり、通り抜けることはできません。人は権力を手に入れると行使したくなるものの様です。同時に暴力化し強制力をもって全てを奪い取っていき、残虐行為が繰り返されていくのが戦争です。
毎日新聞に「平和を訪ねて」という記事が連載されていました。戦後60数年経った今当時、戦地に赴いた方の生の言葉に触れることができました。残虐行為が戦争の内容にもなるが故に事実をそのままに表現できず発言を憚(はばか)ることが起こってくる様です。記事に登場してくる方たちは当時を忘れようとしても忘れられない人や、そんなむごいことはなかったといわれる方、ただ黙しておられる方、告白して胸のつかえが下りた方などがおられることを知りました。
強制労働をさせる側にいた方の中に、自分が加害者の側にいたのは事実だと表明し、人間の深い闇を見たという方もおられます。人は都合の良いことは他人に知ってもらいたいと思う。逆に都合の悪いことは知られたくないと思うそんな心に支配されています。
随分前になりますが、ドイツのヴァイツゼッカー元大統領が九州は長崎に来られ、お話に耳を傾けました。人間は過去の歴史を直視し、なした行為に決して目を閉じてはいけない、という趣旨のことばをききました。人間の抱える罪の歴史を放棄すれば現在ただ今が成り立たなくなることを教えてくれてある様におもいます。