おはようございます。今朝は前回に引き続き、「やわらぎのこころ」と題してお話をさせて頂きます。
私たちの生きている現実は人間関係、つまり関係性を生きているということの外にない様です。その関係性がしばしば失われ、人と人・国と国の調和が保てなくなる現状が生じます。聖徳太子はその現状を憂い悲しみ、仏教の精神をもって国政を司って行こうと決意したのでした。その願いを余すところなく十七条憲法に表明してある様に思います。その第二条を見ていきましょう。「篤(あつ)く三宝を敬え」とまず表明されます。“こころから3つの宝を敬いなさい”といってあります。ここでの3つの宝というのは、「仏」という目覚めた人であり、「法」という目覚めのはたらきであり、「僧」という目覚めた仲間のことです。特に私は一条と二条に関しては人間として生きていく限り、とても大切だと思います。頭を下げずにはおれないことをまず確認してあるのでしょう。
目覚めた人。目覚めのはたらき。目覚めた仲間。この三宝。人間は宝を好みますが、手に入れて取りあえず満足する様な宝とはどうも違うようです。生きとし生けるもの全ての最後の依り処は、この3つの宝なのです。
だから歪んだ生きかたを正すのはこの3つの宝に依るしか道はありません。とこういう意味合いの条文となっています。ましてや人として生まれた者に時代や国、民族、性別、宗教、思想、はたまた個人の能力に異なりがあることを基準にして生きてはいけないんだ。それを以て人を差別するということがあってはなりませんということなのでしょう。世界中のどの国においても全ての人がこの精神を根拠に生きてほしいという太子の願いが伝わって参ります。第一条と第二条に宗という文字がありますが、宗教の宗という字で、中心とか核心ということで、それを依り処にして下さいという意味に受けとめさせて頂くことです。
そして、その精神に依らなければ、どうして枉(まが)ったり歪んだりしているものを直す事ができるだろうかと。枉るという文字は木篇に王様の王という字で、直すという文字は正直の「直」の字を当てています。
では、やわらぎのこころを保つにはどうすればいいのかということになります。それについて第十条には「自分は決して賢い人ではないんだ、相手は決して愚かということではないんだ。みんなごく普通の人なんだ」という意味合いの条文があります。わたしは正しい、間違っていないと善を主張し、あなたは正しくない、間違っていると決め付けていく自分中心の考えに立った生き方に気づいてほしいと。何事にも、自信のある人には分かり様もなく、人間としての愚かさ弱さを、本当に知っている人でなければ、気づくこともない、人間のせつない現実があります。
「愚者になりて往生す」という法然上人のお言葉があります。探い人間の関係を回復するには、愚者になることなくしては在り得ない。愚かさに心が開かれていく所に、本当の人間関係が回復されてくることを教えて下さっている様におもいます。人は時に、人間であることを忘れ、自己をどこまでも正当化し、肯定しようと頑張ります。
いわば私達の在り方は自慢をするか、言い訳をするかを繰り返しての生き方と言っても過言ではないようです。
その時は他者を否定し、排除するといった、心の閉ざされた在り方になっていて、そこに事件・問題が起こされて行くことになっているのかもしれません。そんな在り方・生き方の私達を深く悲しんで、温もりのある人間の交わりを、どうか回復してほしいと、願い続け、励まし続けて下さる仏様のはたらきがあるのです。
そのはたらきに日々会い続けることが大事なことと思うのです。良い面も、悪い面も含めて、在るがままの人間を受けとめて下さる所の、大いなる心に包まれて生きることができたら、どんなに嬉しいことでしょうか。