おはようございます。今朝は「つながるいのち」と題してお話をさせて頂きます。
私達は“つながり”を生きていますと聞きますと、何かしら面倒なこととして受けとめるということがあるかもしれません。近ごろ耳にすることで“迷惑をかけたくない”と年配の方からの言葉として聞こえて参ります。
世間では迷惑防止条例ということがあり、確かに人様の迷惑になることをしてはいけないことです。個人ということが尊重されることはいうまでもありません。個人の領域に他人が勝手に入っていっては本当に迷惑なことです。
年配の方で“若い者には迷惑をかけたくない”といって施設に入る方もおられます。“迷惑をかけたくない”と言う裏にはいろんな事情がそれぞれにあるのだと思います。人様を思ってのことなのでしょうが、本当に迷惑をかけないことになるのでしょうか。
人生の最後に当たって葬儀という大切な儀式がありますが、最近少し気になることがあります。私の住む地域ではご近所とのつながりがまだ生きているといっていいと思うのですが、昨年お年の方が亡くなりお参りに行きましたが、家庭でなく葬儀場でした。お棺の傍らでご遺族がしょんぼりしておられました。
お参りを済ませお話を伺いますと、喪主の方は、地区の役員の方や、ご近所の方には亡くなったことをお知らせしないというのです。葬儀も親戚などの内々でされるとのことでした。せめて、地域のお役の方だけでも連絡してはどうですかと申し上げました。また長年、仏様のおしえを聞いてきた仲間もいるのでその方たちには私からご連絡をしました。
みんなに迷惑になるから連絡もしない、葬儀もご遠慮しますというのでは、これから大事な人間関係を生きる上にいささか不安を覚えたことでした。最近“直葬”ということがあると聞きます。病院で亡くなりますと、入院先から火葬場に直行するそうです。これが急増しているとも聞きます。そうしますと、お葬式がないということになるのでしょうか。人生の最期をかざる儀式が無くなったら、後に続く人たちにどういう形で何を残すのでしょうか。
だれの世話も受けずに生まれ育った人はいないはずです。そのことをお別れの儀式を通して後の人が学んでいくのだと思います。人は個々別々の願いを生きていますがそれが問題ではなく、その人が確かにおられたという事実は、大いなる願いを生きたということであり、いのちを生きたということであると思います。その事実に真向かいになることが大事な儀式としての葬儀だと思うのです。ご挨拶で“今日はお寒い中においでいただき、誠に有難うございました”と申します。いのちを生きているという事実はそんな謙虚さを促してくるのだと思います。
この世の全ては、それそのもので生まれ成り立っているものは何一つありません。ましてやこの自分は沢山の人にお世話いただいて今があるのです。まさにいのちが私となって生きている。いのちを漢字で生命とも寿命とも書き、一字で命(みょう)、命(いのち)とも書きますが、平仮名で“いのち”としか書けないところに深いものを感じます。様々な生まれと生き方の異なりはありますが、連綿と繋がるいのちが今の私となって生きていると実感できたら、どんなに嬉しいことでしょうか。
人間の出発は思いを越えた所からしか出発していない。そんな思いを越えたいのちが私となって生きている。なんと不思議なことでしょうか。この私まで受け継がれたいのち、今を生き抜くいのち、そして引き継ぐいのちを内容として生きている。
体操の時間に脊椎を痛め車椅子の生活になった星野冨弘さんは詩のなかで「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」といっています。本当に生きるということになったら日ごろの意識では間に合わないのでしょう。