ラジオ放送「東本願寺の時間」

滋野井 光(石川県 稱佛寺)
第1回 「後生の一大事」と向き合う [2009.4.]音声を聞く

おはようございます。
浄土真宗の開祖・親鸞聖人の750回御遠忌に向けて、東本願寺では「今、いのちがあなたを生きている」というテーマを掲げています。このテーマから私は「そのあなたを生ききれ」という呼びかけをいただきました。今日から6回にわたり、この呼びかけを念頭に置いてお話しさせていただきたいと思います。
今から五百三、四十年前、本願寺第八代の蓮如上人は各地のご門徒宛に、親鸞聖人の教えを説くためのお手紙をたくさんお出しになりました。いわゆる「御文」と呼ばれるこれらのお手紙の中に、「白骨の御文」と呼ばれる一通があります。この御文は、例えばお葬式のあと、お骨を拾って自宅へ戻られてからの最初のお参りである「還骨」の時、骨壺を前にして拝読されます。身近な人の死に触れている方々に、そういう時だからこそ、是非感じ取って頂きたいことが書かれている御文です。
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり・・・」という書き出しで始まる文章は、その大半が私たちの存在のはかなさを切々と説いています。一万年生きた人の話など聞いたこともない、百年すら元気な姿で過ごせるものでもない。朝、艶々の顔をして目覚めたとしても、日の暮れる頃には白骨になっていることだってあり得るのだよ、と。そして最期の時を迎えるのは、年寄りが先で若い者は後になるという約束のないのが私たちのありさまなのだということを確かめた上で、「たれの人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」という言葉で締めくくられています。後生の「ゴ」は前後の「後」、「ショウ」は人生の「生」と書きます。
このお手紙で私たちの一生のはかなさが強調されているのは、本当に真剣に考えるべき「後生の一大事」ということを二の次、三の次にしてしまっている私たちのありさまを嘆いておられるのだと思います。言われてみると、本当にその通りです。今朝目覚めたようにして明日の朝も目覚めることが出来る保証など、どこにもないのです。保証がないにもかかわらず、それでもやっぱり「いつか機会があったらゆっくり考えよう」という具合にして、先延ばし先延ばしにしてしまっています。
私の住む石川県のある地方では以前、お悔やみを述べる時、遺族の方に「この度は大変な御催促でしたね」と言うことがあったそうです。ご催促というのは、遅れている仕事を急かせる時に「催促する」という、あの催促です。肉親を亡くすというのは、大変に寂しいことであると同時に、嫌でも自分自身の死について考えさせられます。日頃は考えようともしないことを考えさせられるという意味で、「催促」といわれるのでしょう。催促に「御」が付くということは、「これも如来のおはからいですよ」という受け止めがあると考えられます。肉親の死だけではなく、自分が死と直面するような病気になるということも、「御催促」です。そういう「御催促」を受けなければ、私たちはなかなか、「後生の一大事」というほどのことにも向かい合うことがないということなのでしょう。
ここで使われている「後生の一大事」という言葉の中身は、蓮如上人の時代で言えば、「今度生まれ変わる時に、極楽に行けるのか行けないのか」ということです。後生というのは今の人生を終えた、その次の人生ということなのですが、それがどんなものになるのかは、今の人生の過ごし方の良し悪しによって決まると考えられていました。ですから後生の一大事ということによって、次の世で極楽に行けるような生き方をしているのかどうか、現在(いま)の自分が生き方がこれでよいのかどうか、ということが問題になってきます。
ただ、蓮如上人の時代なら、極楽という世界は誰もが望む世界として考えられていたでしょうが、現代の私たちにとってはおとぎ話のようなものです。後生と言っても、死後の世界を云々するような話になってしまって、あまり真剣になれません。そこで次回は、今の時代にも通じていけるような、「後生の一大事」という言葉の意味づけを探してみたいと思います。

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