ラジオ放送「東本願寺の時間」

滋野井 光(石川県 稱佛寺)
第2回 この生涯を歓び、このいのちを生ききる [2009.4.]音声を聞く

おはようございます。
前回の放送では、本願寺第八代の蓮如上人が書かれたお手紙によく出てくる「後生の一大事」という言葉について触れさせて頂きました。今回は今の時代にこの言葉がどんな中身を持つか、考えてみたいと思います。
つい先日、よくお世話になったおばあちゃんが亡くなってご葬儀を勤めたときのことです。そのおばあちゃんは私がお参りに行くと、いつも穏やかな笑顔で迎えて下さる方でした。お通夜のお経を読みながら、正面に置かれたお写真を見上げていました。見慣れた、もの静かな笑顔の写真だったのですが、ふとそのお写真の中から語りかけられているような気がしてきたのです。「次はあなたの番かもしれませんよ」。それからもう一言、「準備は出来ていますか?」。ドキっとするよりは、生前の優しい口調を思い出し、不思議と穏やかな気持ちになって、「ありがとうございます」と返事をしたくなりました。
思えば私たちは生涯の間、色々なことで準備をします。保育園では小学校に上がる準備をします。中学の後半から高校受験の準備、高校では大学受験、大学では就職の準備。社会人になったら結婚の準備、あるいは次に取りかかる仕事の準備。これだけ色々なことの準備をしていながら、死ぬ準備についてはあまり考えません。
死ぬ準備と言っても、遺産分けの遺言書を書くとか、自分の葬儀の段取りを付けておくとか、そんなことではありません。「死んでも死にきれない」という言い方をしますが、そういう無念な思いを抱えて最期を迎えるようなことにはなりたくないと思います。「死んでも死にきれない」ということは、言い換えてみると、自分はこんな事のために生きてきたのではない、ということです。どうすれば死にきることが出来るのか、そのためにどんな生き方をすればいいのか。それをはっきりさせ、それを生きていなければ、死にきることが出来ないわけです。
自分自身のことでありながら、なかなか分からないのがこの問いではないでしょうか。財産や地位や名誉のために生きている、などとは思いたくないものです。けれど振り返って考えてみると、やはり財産や地位や名誉を大事にしてきたような気がします。あるいは、幸せになるために生きている、と言うのかもしれません。ところが今度はその幸せということの中身がよく分かりません。私たちが幸せと言っていることの中身は、ひょっとしたら人よりましな暮らしをする、という以上のものではないのかもしれません。私たちはどうなりたいのでしょう。どうなれば、あるいは何を手に入れれば、死にきることが出来る者になれるのでしょうか。
私自身、自分の中でそれをどう言い当てればよいのかはっきりしないまま、色々な先生方の本のページをめくっていました。そんなとき、九州大谷短期大学で永らく教鞭を執られ、昨年(2008年)の暮れに亡くなられた宮城顗(しずか)先生のこんな言葉に出遇いました。
「信仰ということは、身の事実、生活の状況がいかにもあれ、その中で、賜ったこの生涯を歓び、賜ったこの命を燃やして生ききる勇気と情熱を賜ることです」。この言葉は、東本願寺から出版されている『宗祖聖人親鸞―生涯とその教え』(1988年)という本の中にありました。ここで言う「身の事実」というのは、男だとか女だとか、どんな家に生まれてどんな顔をしているのか、どこの国のどんな時代に生きているのかという、私を形作っている事柄全体を意味しています。さっきの言葉をもう一度読みます。「信仰ということは、身の事実、生活の状況がいかにもあれ、その中で、賜ったこの生涯を歓び、賜ったこの命を燃やして生ききる勇気と情熱を賜ることです」。この最初の「信仰」という言葉を「後生の一大事」という言葉で置き換えればよいのではないかと思いました。
身の事実というものは誰にも代わってもらえません。生活の状況も、社会の情勢によってどうとでも変わってしまいます。そのような中にあっても、この生涯を歓び、この命を燃やして生ききることが出来る者には、なることができそうです。また、そうなれなければ、生まれて、生きた甲斐もないと思いませんか。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回