ラジオ放送「東本願寺の時間」

滋野井 光(石川県 稱佛寺)
第3回 たすかる、とはどうなることか [2009.4.]音声を聞く

おはようございます。
前回の放送では、「死んでも死にきれない」という言葉から、ではどうすれば死にきることが出来る者になれるのか、という問いを出させていただきました。そして、九州大谷短期大学で教鞭を執っておられた、宮城顗(しずか)先生のお言葉を紹介させていただきました。こんなお言葉でした。「信仰ということは、身の事実、生活の状況がいかにもあれ、その中で、賜ったこの生涯を歓び、賜ったこの命を燃やして生ききる勇気と情熱を賜ることです」。今回は、もう少しこのお言葉から学んでいきたいと思います。
このお言葉に出遇ったのは、実は私自身が一般の方からの問いを受けていた時でした。私が講師を仰せつかっていたある学習会で、一人の参加者の方からこんな質問を受けました。「お念仏をすれば、阿弥陀さんがたすけてくれるとか言われますが、それはどうなることなんですか。たすかるって、どういうことですか」。この問いに対して私は、その場で的確な返事をすることが出来ませんでした。
まず、「命が助かる」と言うときがあります。事故に遭ったりやっかいな病気に罹(かか)ったりして、死を覚悟しなければならないというような状況になって、それでも死なずに済んだ時です。この、死なずに済んだということを「助かった」というなら、私たちは最期の最期は助かりません。必ず死ななければならないからです。
次に、お金に困っている時に、誰かが用立ててくれたとか、資金繰りがうまくいった場合、「助かった」と言うでしょう。この助かり方も、そのときはなんとか危機を乗り越えたのかもしれませんが、次の危機やその次の危機も乗り越えられるとは限りません。
その他色々と例を考えることが出来ますが、いずれも何か困ったことが起こって、それをうまくやり過ごせた時に「助かった」と言っているわけです。同じようなことに二度とならない、というわけにはいかないようです。このような、「困ったなあ」「助かったなあ」、また「困ったなあ」「助かったなあ」という繰り返しを、「流転」と呼べばいいのではないかと思います。流れ、転がると書いて「るてん」と読みます。
流転の中にある間は、本当に助かったとは言えないのです。本当に助かるというのは、助かりきることでなければなりません。助かりきるという助かり方をしているならば、最期を迎えるそのときにも、助かっている、と言うことができるはずです。さらに加えて言うならば、それが一部の人に限って許されるようなものであっては困ります。特定の環境に生まれた人に限られるとか、あるいは経済的なことが必要条件となるようでは、誰もがうなずける話にはなりません。本当に助かるということは、どうなることなのでしょう。
そして、前回から申し上げております、宮城先生のお言葉に出遇わせて頂きました。「身の事実、生活の状況がいかにもあれ、その中で」という部分で、一切の人に開かれているということが言えます。そして「賜ったこの生涯を歓び、賜ったこの命を燃やして生ききる」という部分で、「そういう者になれればいいんだ!」という、自分の中で大事なことを確かめられた感動がありました。生涯を歓び、生ききることができていれば、「死んでも死にきれない」という言葉を残す必要がありません。助かりきるということと、第1回の放送から申し上げている、「後生の一大事」という言葉が、この生涯を歓び、生ききることができる者になる、という一点で重なってきたのです。
もちろん、生涯を歓び、生ききると言いましても、どうしたらそうなれるのかという問題があります。自分の中からいつもそんな力がわいて来るなら苦労はしないのですが、へこたれて、弱々しい気分になってしまうことも多くあります。そこが宮城先生の言葉では、「信仰とは、勇気と情熱を賜ることです」となっています。この賜った生涯を歓び、命を燃やして生き切るには、勇気と情熱が必要なのですけれども、それは自分の中からわいてくると言うよりは、信仰によって賜るものなのです。親鸞聖人のお言葉によれば、南無阿弥陀仏が、私たちの生ききる原動力になって下さるのです。

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