ラジオ放送「東本願寺の時間」

滋野井 光(石川県 稱佛寺)
第6回 どんな場所に根を下ろすのか [2009.5.]音声を聞く

おはようございます。
私がお話しさせて頂くのは今回が最終回です。これまでの5回で、賜ったこの人生を歓び、生ききるということについてお話ししてきました。最後に、極楽浄土という世界から教えられていることを確かめさせて頂きたいと思います。
浄土というのは、仏さまがお造りになった、仏さまの国です。特に極楽浄土は、阿弥陀如来が私たち全員を救おうとしてお造りになった国で、その成り立ちは『仏説無量寿経』というお経に書かれています。浄土という場所がこの世のどこかに物理的に存在するというわけではありませんが、私たちが生きていく上での確かな道標(みちしるべ)になるものとして、お釈迦様が説いて下さったものだと考えることが出来ます。
極楽という国のありさまは、まことにすばらしい場所としてお経の中に描き出されています。そしてその一番の特徴は、すべての人が分け隔てなく迎え入れられるというところにあります。男であろうと女であろうと、金持ちであろうと貧しい者であろうと、善人であろうと悪人であろうと、その国に生まれたいと願う者を総て迎え入れると誓われています。これが私たちの思い描く「理想の世界」と極楽浄土との決定的な違いだと思います。
私たちも大なり小なり、理想の世界を思い描くことがあります。理想の家庭、理想の職場、理想の地域社会、そして理想の国。なかなかすばらしい場所として思い描くのですが、大きな問題を抱えていることに気がついていません。それは、その場所を共有する一員になれる者もいれば、なれない者も出てしまうということです。要するに、自分の気に入ったものは仲間に入れるけれども、自分の気に入らない者は仲間から外す、排除するということです。子供の世界にある仲間外れがそうですし、おとなの社会だと、古い言葉になりますが「村八分」、国家同士の関係で言えば軍事同盟と仮想敵国などが考えられます。
以前、子育て中のお母さんの「公園デビュー」ということが話題になっていました。地域のお母さんたちの仲間に入れるか入れないか、子供同士の関係をうまく作れるか作れないか、大きな分かれ目として盛んに言われていました。私たちにしてみれば、身近な社会にその一員として加わっていられるかいられないかは、生活の便利さの上でも、安心感という点でも、大きな問題です。そういう問題が出てくるということも、私たちの作る社会には、必ず排除される者があることを示しています。排除されないためには、所属したいと思う社会のルールに従って生きていかなければなりません。それは時として甚だ不本意な事であるかもしれませんが、我慢するしかないのです。戦時中は、戦争に対して協力的でなければ「非国民」のレッテルを貼られ、地域社会から白い目で見られることになりました。嫌々ながらでも戦争に協力するしかなかったのです。
私たちは、自分がどんな場所に根を下ろそうとするのかによって、生きる姿がずいぶんと変わってしまうようです。特に、活き活きとこの人生を生ききりたいと願う時には、この自分のすべてを受け容れてくれる場所が必要です。家庭がそのような場所である人はまことに幸せですが、家庭を持てない人もいます。あるいは、家庭にも様々な事情があって、かえって力を削がれてしまう場合もあります。人間の作る共同体は、どれを取ってみても、すべての人が根を下ろせる場所にはなり得ないということなのかもしれません。
どこかに根を下ろさねば生きていられない私たちに向かって、「極楽という世界を用意しました。ここに根を下ろして生きていって下さい」と呼びかけて下さっているのが阿弥陀如来という仏さまです。その仏さまがいつもいつも私たちに呼びかけてくれているということを教えて下さったのが、親鸞聖人です。親鸞聖人ご自身が、阿弥陀如来からの呼びかけを「本尊」、つまり本当に尊いこととして生きてゆかれ、その人生を燃やし尽くして生ききられたのだと思います。私も、生活の中で出遇った人々とともに、極楽浄土に根を下ろし、聖人の背中を追いかけながら、この世界を生きていきたいと願っています。
どうもありがとうございました。

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