ラジオ放送「東本願寺の時間」

滋野井 光(石川県 稱佛寺)
第5回 何が私を縛っているのか [2009.5.]音声を聞く

おはようございます。
前回までのお話で、誰にとっても自分の人生を歓び生ききることが一番大切なことであり、その生ききる力を下さるのが「南無阿弥陀仏」だと親鸞聖人が教えて下さっている、ということを申し上げてきました。今回は、どういう形で私たちが南無阿弥陀仏から力をいただけるのか、考えていきたいと思います。
生まれたばかりの赤ん坊や小さな子供を見ていると、本当に無邪気に生きているなあと思いませんか。笑うにしろ泣くにしろ、あるがままを活き活きと生きています。私たちの誰もがあのような姿で生きている時期があったはずです。それがいつのまにか手足の縮こまった生き方になってしまっているように思います。何が私たちを活き活きとさせてくれないのでしょうか。
親鸞聖人は、それは私たちが鬼神に縛られているからだ、と教えて下さっています。鬼神の「キ」は「鬼」、「ジン」は神様の「神」です。親鸞聖人の時代には、人間に御利益を与えたり祟りをなしたりする仏さまや神さまが、ずいぶんと現実味を持って信じられていたようです。こういった鬼神のご機嫌を損ねないように、お供え物をしたりお敬いしたりしなければ、祟りという形で災いが降りかかってきます。そのような恐れが生活の隅々にまで入り込んでいたと考えられます。南無阿弥陀仏と称えることは、このような鬼神から解放されることを意味していました。
今の時代、神さまや仏さまと言ってもあまり現実味がありません。しかし私たちの生活の中にも、形はありませんが、私たちの心を縛り、操ろうとする様々な力が入り込んでいます。例えば「世間様」というのがその一つです。「そんなことをすると、世間で笑いものになる」とか、「世間様に対して恥ずかしい」という意識を私たちは持っています。具体的に誰彼ということではなくて、漠然とした存在ですが、世間様という鬼神がいるのです。そしてそういった鬼神がどういう術を使って私たちを縛り、操るかというと、「評価」です。「あの人は優れた人だ」とか、「あの人は愚かな人だ」とか、「あの人は役に立つ人だ」とか、「あの人は不真面目な人だ」とか。良い評価、高い評価を得れば、社会の大切な一員として手厚くもてなされますが、良くない評価、低い評価しか得られなければ、社会の一員とは認められなくなり、居場所を失ってしまいます。私たちは、自分を迎え入れてくれる場所を本能的に求めているようで、自ずから良い評価、高い評価を得ようとして頑張ってしまうのです。
例えば、少し認知症が進んできた人の家族の方が、要介護の認定を受けようとして申請を出す時のことです。これは本人への面接と家族の方からの事情聴取で要介護何級という段階が決まるのですが、不思議なことに、そういった面接の時に限って、日頃の認知症の症状があまり出ないのです。色々な質問事項にもきちんきちんと答えられるので、家族の方の方が、「おかしいなあ・・・」と感じてしまうこともあります。実は私の祖母がそんな様子だったということを、同居していた叔父から聞かされたことがあります。そのときは思わず笑ってしまったのですが、すぐにこれは私自身の姿だということに思い当たりました。おそらく祖母の中では、無意識のうちに、「衰えた姿は見せられない。自分はまだまだこの社会の一員としてやっていけるんだ」ということを示さずにはおれなかったんだろうと思います。私は祖母の姿の中に、世間の評価に縛られ操られている私自身のありさまを見せてもらったような気がします。
自分が世間からどう評価されるのか、それを一番大切なこととして考えてしまうと、手足の縮こまった生き方しかできなくなるのではないでしょうか。あるいは、人を差し置いてでも自分が高い評価を得ようとする、エゴイスティックな生き方になってしまうかもしれません。本当に大切にすべきことは、そんなことではありませんよ、と私たちに呼びかけて下さっている言葉が、「南無阿弥陀仏」なのです。

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