おはようございます。
前回は、私たちがそれぞれの賜った人生を歓び、生ききるには勇気と情熱が必要なのだということ、そしてそれは南無阿弥陀仏から賜ることができると親鸞聖人が教えて下さっている、ということを申し上げました。今回はそのことを、自分を背負うということからもう一度考えてみたいと思います。
真宗の教えを聞いて生きていく、ということを明らかにする時、帰敬式と呼ばれる儀式を受けます。帰敬式の「キ」は「家に帰る、帰宅」の「帰」、「キョウ」は「敬う」という字を書きます。「おかみそり」と呼ばれることもあります。この帰敬式をお受けになる方には、帰敬式を受けることの意義についてのお話を聞いていただくことになっています。私がそのお話をするとき、好んで材料に使わせていただいている小説の一節があります。芥川龍之介の『河童(かっぱ)』という作品です。
小説の全体は、河童の国に迷い込んだ男性が、そこで体験したことを後に人間の社会に戻ってから語るという設定になっています。その体験談の中で、友達になったバッグという名前の河童の子供が生まれようとする現場に立ち会うという場面があります。人間と河童では、生まれてくる時のありさまが全く違っていて、父親が母親のお腹の中の子供に呼びかける所から始まります。ベッドの上に大きなお腹をして横たわっている母親の股の間に口を当てて、父親は大きな声で「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ」と呼びかけるのです。その呼びかけに答えて、子供が返事をするのですが、なんと、バッグの子供は生まれることは御免こうむるというわけです。この父親に似てしまうのは困ったものでもあるし、そもそも河童なんかには生まれたくないというのがその理由でした。そばに待機していたお産婆さんの河童がその返事を聞くと、すぐに母親のお腹に太い注射器を突っ込んで、なんらかの液体を注入しました。それまで大きかったお腹は、風船がしぼんでいくように縮んでゆき、河童の子供は空気のようにどこかへ消えていってしまったということです。
もちろん河童というのは想像上の生き物で、実在するわけではないので、この小説のようなことなどあるはずはないと思います。ただ、このように書かれてみると、私たちの誕生の仕方も、かなりとんでもないものなんだということが分かります。自分が何者で、どんな人間を親として、どんな時代にどんな場所に生まれるのか、一切知らされないままこの世に放り出されるのですから。河童は自分がこの世で生きていくかどうかを、誕生の時に決めさせてもらえるのです。芥川の小説では生まれない方を選びましたが、生きている河童は皆、「私は生まれたいです」と言って、生まれる方を選んだのだということになります。私たち人間は、誰一人としてそんなことを聞かれた覚えもありませんし、そのときは聞かれたとしても返事のしようもありません。ですからよくない言い方かもしれませんが、「そのままズルズル今日まで来ている」ということすらあり得るわけです。河童のように、あのとき選ばせていてくれたら、ひょっとしたら止めていたかもしれない、という思いもあるかもしれません。
そういう私たちだからこそ、生まれることを選んだ河童のように、「この私を生きていくぞ」と自分の中で決める「始まりの時」というのを持たなければならないのではないかと思います。「オギャア」と叫んで生まれてくる時が第一の誕生だとすれば、「この私を生きていくぞ」という決定の時は、第二の誕生だということができます。この誕生の後押しをしてくれるのが、南無阿弥陀仏のお念仏だと私は思っています。誕生の時だけではありません。生活の中でへこたれたり、どうして良いのか分からなくなって立ちすくんでしまうような時でも同じです。次の一歩を踏み出す力になってくれるのが南無阿弥陀仏ですよと、親鸞聖人が、750年の時を超えて呼びかけて下さっているように思います。