おはようございます。
今日から6回にわたって、大垣教区の譲西賢が担当します。よろしくお願いします。私は、住職のかたわら大学で心理学を担当し、相談をお受けするカウンセリングを実践しています。
そのなかである一人の学生と出会いました。そのお話をいたします。なお、プライバシーに配慮して、学生の具体的な状況は変えてあります。
その学生は、幼少期からピアノを練習し、ピアノを専攻したくて大学進学したけれども、自分より上手な人が沢山いることがわかって、何事にもやる気をなくしてしまった。何もできない自分に思えて自分がいやで仕方なく、とても辛いという学生でした。よく聴いてみますと、「自分は小さいときから、一番にならないと親に認めてもらえず、ピアノだけは誰にも負けまいと練習してきた」とのことでした。この学生に限らず、一番になること、優越感をもつこと、勝つことは、誰でも求めますし目標です。これがあるから努力や忍耐もできます。そして、これが充(み)たされているときは、誰でも元気で意欲に満ちて生活できます。
でも、いつも一番になれるとは限りませんし、誰でもなれる訳ではありません。一番になることを生き甲斐の条件にしていると、この学生のように一番になれず条件をクリアーすることに失敗すればやる気をなくしてしまうのは、とてもよくわかる気がします。
皆さんは、この学生の悩みをどのように感じられますか。誰もが皆、自分の生きがいや目標をもって生きています。それが達成できればうれしいのですが、いつも達成できるとは限りません。この学生は、大学生になるまでは、いわゆる優等生で自分の思いや目標を常に達成して優越感を糧として生きてきたようです。この積み重ねの中で、本人もご家族も優越感という条件をクリアーすることによってのみ、人間の存在価値は認められると思い込んでしまったのです。それが思い違いであるとは微塵も思っておられませんでした。
カウンセリングのなかで、この学生は、自分の過去を振り返り、いつも母親の前ではいい子にしているしかなかった自分を思い出します。そして、母親の笑顔と「ピアノ一番上手だったよ」のことばだけが、自分を癒してくれると思いこんでいて、それがなくなったらどうしようと不安で仕方なかった自分に気づきました。母親から見放されることが怖くて、自分の進路などは、自分で選んで決めることはなく、すべて母親の意見に従うしかなかった自分に気づき、大学に入学して意欲がなくなったのは、すべて母親のせいであり、母親の責任にしたい自分の心であることにも気づきました。その後、自分で決めて行動することを試し始め、ピアノから離れて自分で楽しめる活動を見つけ、大学を卒業することができた学生でした。
私たちは、自分の当てがはずれることは望みません。すべてが、思い通りに運ぶことを求めます。でも、苦悩しなければ本当の自分の生き方が見つからないことが多いのではないでしょうか。この学生も、一番になって親に認めてもらわなければ、自分の存在価値はないと思いこんで生きてきました。そして、この学生が、意欲を無くして悩んだことによって、カウンセリングを受け、本来の自分の生き方を見つけることができたのです。生きていくのにクリアーしなければいけない条件なんてないのに、「条件をクリアーしなければ」と思いこんでしまったこの学生が、自分の思い違いに気がつくためには、意欲喪失という苦悩が必要だったのではないでしょうか。
この学生の自分の心と生き方発見の経過に譬(たと)えられる一連の用(はたら)きを、親鸞聖人は私たちに「如来の大悲」と教えてくださっています。阿弥陀如来の大いなる慈悲ということです。苦悩することは辛いことですが、私たちが、自分の思い込みから離れて、別の眼(まなこ)から見つめ直すためには必要なことです。「自分の条件をクリアーしなければ」という思い込みや思い違いからすくい、解き放そうとする用きが私たちには、必ず届いています。この用きが如来様です。苦悩は、本来の自分として生きるために、如来様が「気づいてください」と、私たちを励ましてくださっているのではないでしょうか。