ラジオ放送「東本願寺の時間」

譲 西賢(岐阜県 慶圓寺)
第5回 アミタクラシーの安らぎ [2009.6.]音声を聞く

おはようございます。
もう40年も昔のことですが、私の父方の祖母が、72歳で亡くなりました。59歳の時に脳溢血で倒れ、それ以後亡くなるまで13年間寝たきりでした。私の3才の時に倒れ16歳の時に亡くなった訳です。16年一緒に暮らしましたが、私は、祖母が元気に歩いていた記憶はなく、寝た切りの祖母しか知りません。今と時代が違いますから、私の母が、姑である祖母の面倒を食事から下の世話まで、ほぼ付きっきりで介護していたと思います。確かに世話をした母親は大変であったと思いますが、私からみた祖母は、とても大切な存在でした。親に叱られて居場所がないとき、私には強い味方がありました。祖母です。寝たきりであることが有難かったのです。いつも座敷で寝ていましたから、その座敷に逃げ込めば、親にそれ以上叱られることはありませんでした。また、私は、風邪で発熱して時々学校を休みましたが、二日も寝ていれば熱は下がり元気になりました。というより、二日も寝ていると厭になりました。その度に「おばあちゃんってすごいな。10年も寝ているのか」と思ったものです。祖母が、亡くなった後、残された家族は、祖母が寝ていた座敷の畳の上は、誰も歩けなかった記憶があります。今も、私の記憶の中では、寝たきりだった祖母の存在価値は、とても大きく思えます。
昨年来、百年に一度といわれる不景気の中、リストラに輪をかけた理不尽な派遣切りや人材整理が、社会問題になっています。しかし、こうした社会問題は、今の日本に始まったことではありません。たとえば、イギリスでは今から50年ほど前の、1950年代に、不景気の中、会社を存続させるために、会社に役に立ちメリットのある人だけを残し、役に立たないデメリットといえる人を解雇する風潮が強かったそうです。社会学者で自らは学校を所有していたマイケル・ヤングは、メリットだけを尊重するこうした社会の風潮を批判し、皮肉をこめて「メリト・クラシー」という造語で表現しました。まさに、現在の日本は、役に立ちメリットであると評価された人だけが認められる「メリト・クラシー」社会なのではないでしょうか。会社を守るために人間を捨てるしかないと判断されるから、「メリト・クラシー」社会は、とても深刻なのです。
会社が生き延びるための「メリト・クラシー」社会が、私たちの身近な生活のなかにまで侵入していないでしょうか。手間のかかるお年寄りの居場所がないという高齢者問題は、その卑近な例ではないでしょうか。手間のかかるお年寄りを抱える家族の心のなかに、「メリト・クラシー」と表現できる気持ちがあるのも事実かも知れません。人間の本性に基づけば、この「メリト・クラシー」社会になるしかないのかも知れません。
「寝たきりになったら、周囲に迷惑かけるし最悪だ」といわれます。でも、私には今も、13年寝たきりだった祖母は、迷惑ではなかったし最悪ではありませんでした。とても大きな存在価値がありました。寝たきりでありながら、笑顔を絶やさず生ききった一生涯は、心底凄いと思います。
広島県を中心にした地域で、親鸞聖人のみ教えに熱心に帰依して生きる多くの人々は昔から、安芸の国にちなんで安芸門徒と呼ばれます。浄土真宗本願寺派のこの安芸門徒で、広島大学名誉教授、現在くらしき作陽大学教授の松田正典(まさのり)先生は、この人間がつくり出す「メリト・クラシー」社会に対して、無条件にいかなる人も受け容れられ、居場所を得ることができる世界が阿弥陀如来によって示されると説明され、その世界を「メリト・クラシー」に対して「アミタクラシー」と提唱しておられます。人間の本能に基づけば、自分にとって役に立つものだけを大切にし、役に立たないものは切り捨てようとするから、阿弥陀如来が、無条件にあるがままに受け容れられる世界を示してくださるということです。私の祖母は、まさにこの「アミタクラシー」を証(あかし)してくれた気がしてなりません。

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