おはようございます。
私たちの毎日の生活には、いわゆる社交辞令という気休めの挨拶があります。例えば、60歳の女性に向かって、「60歳でいらっしゃいますか。とても60歳には見えません。どうみても70歳にしか見えません」とは、絶対言いません。心の中ではどのように思っていようとも、「60歳には見えませんよ。まだまだ50代、いや40代にも見えますよ。お若いですよ」と言います。すると、ほとんどの方はニンマリされます。また、皆さんは、お寺のご住職がおうちにお参りに来られた時に、仏間でどのようなご挨拶をされますか。「今日は、お忙しいところありがとうございます」ではありませんか。私も多くの家で、そのようにご挨拶を受けます。長年住職をしていますが、一度も「今日は、お暇なところありがとうございます」と挨拶されたことはありません。これらの社交辞令には、人間の本性があらわされているのではないでしょうか。
「お若いですね」や「お忙しいところ」は、事実に応えているのではなく、人間の思いに応えているということです。人間は、事実よりも思いを大切に生きているのです。ですから、「お若いですよ」と言われ、「どこでも役に立つあなたは、お忙しい」と言われると、人間は、思いが充(み)たされますから、とても御機嫌なのです。だから、社交辞令は、人間の思いを充たすことばなのです。どうやら人間は、自分が置かれている事実よりも自分の思いを大切に生きているようです。でも、事実を無視して、自分に都合のいいことだけを求める思いは、私たちを決して真実の安らぎへは導いてくれません。当てにならず危ないものです。思い通りに生きていけないことが、いのちの真実ですから、人間は苦悩するのです。
今年の春休みこんなことがありました。私は、お昼ご飯を自宅で食べることはほとんどありません。土日は法事などでお斎(とき)といわれる食事をいただき、平日は大学で食べます。でも、春休みや夏休みの平日は、時々自宅でお昼ご飯を食べます。春休みの先日、私がお昼に家にいましたら、家内が「今日お昼はどうするの」と聞きましたので、「うちで食べるよ」と軽く答えましたら、「食べるの」と、心底迷惑顔されました。私は、「まあ嬉しい、今日はご飯食べてくれるのね。では、気合い入れてお昼ご飯作るね」と言われて当たり前に思っていましたから、この迷惑顔はまったく意外でした。それくらい私は、思いあがっているのです。私は、家でお昼ご飯を食べること自体が迷惑だと教えてもらった訳です。
真宗大谷派は、「今、いのちがあなたを生きている」をテーマに掲げて、2011年、宗祖親鸞聖人の750回御遠忌法要をお勤めします。日ごろ、「お若いですね」や「お忙しいところ」と、自分の思いを充たすことばに癒されている私たちは、「今、いのちがあなたを生きている」と呼びかけられても違和感があります。自分は、こんなに家族のために役に立っているのだと思いあがり、家族に迷惑をかけていることや家族のお世話になっていることに気がついていない方が多いのではないでしょうか。逆に、悲観する思いにとらわれて「自分ほど迷惑かけている人間はいないから、生きている価値がない」と落ち込んでいる方もおられるかも知れません。共通して、「今、いのちがあなたを生きている」ではなく、「今、私が自分のいのちを生きている」という思いではないでしょうか。
この度の御遠忌テーマに込められている願いは、自分の真実の姿を見失い、自分の思いを充たすことに終始している私たちに気づけという阿弥陀如来からのご催促です。そして、阿弥陀如来は、そのことになかなか気づけない私たちに、決して諦めることなく、私たちが人間に生まれ、人間を生きる意義と喜びに充ちる願いをもって、いつでも、どこでも、はたらきかけ続けてくださっているのです。この度の御遠忌テーマは、私には、「今、いのちが私を生きている」と響いてきます。
6回にわたってお聴きいただきありがとうございました。