ラジオ放送「東本願寺の時間」

久保 博巳(香川県 深妙寺)
第2回 「いのち」って何だろうか その2 [2009.7.]音声を聞く

おはようございます。前回は、「いのち」のつながりについてお話をしました。
さて、「いのち」といっても色々な意味合いのいのちがあります。まず第一は、「死にたくな~い!」という自分の身体に宿る私のいのちです。自分のいのちは、これこそ間違いないものだし、健康の為ならどんなに高価な健康サプリメントでも買い求めるように、自分のものと思っています。それがなかなかどうして、そう簡単ではありません。死なねばならないときが来たら自分の力でも何ともなりません。生まれてきた以上必ず死ぬということは自明のことであるはずです。分かっているけれども気がつかないのです。
こんな面白い話があります。ある人がお寺にお参りに来て、「ご住職さん、なんとか死なない方法はないでしょうか」と言ったら、あろうことか、その住職さんが、「ある!」と言ったそうです。「そんなバカな!ご住職さんは嘘をつかない人だと思っていたけど、理由を聞かせてくれ」と言ったら、「明日来い!」と言うのです。その人は夜も寝ずに、「薬でも飲むのかな、眠り薬でも飲むのかな」と色々考えて、夜が明けるやいなやお寺へ行ったら、たった一言「よう聞けよ、生まれてこんことだ!」と言われたそうです。まあ笑って済ませる話ですが、「いのち」を自分のものと思う心は、なかなか厄介なものです。
また次に、各自自分のいのちがあるように、他の人々も大切ないのちが与えられています。今、家の外で「ピーポーピーポー」と救急車が走り去っていきます。死にそうになったいのちが医師の所へ運ばれ救われようとしています。医師はそのとき、そのいのちを外から客観的に「もの」として捉えている一面があるようです。医師はもちろんいのちを救っているのですが、不思議ないのちというより機械的いのちの扱いの方が都合がいいのかもしれません。法律の世界でも、人間であっても「もの的」扱い方をします。五月二十一日から裁判員制度が始まりましたが、浄土真宗の教えをよりどころとして生きるものは裁判員として、「いのち」に対してどのような態度を取るのか、大きな課題です。
また、私の外にあるいのちでも、我が子であったり、愛する人であったり、肉親のいのちは自分のいのちでなくても痛みすら感じる気がします。どこか共有する所があります。仲間同士とか、民族同士、同じ国民同士でも、そのときは他人ながら、いのちの結びつきを感じます。そういういのちは「社会的いのち」とでもいうのでしょうか。
でも、いのちは人間だけのものではありません。犬や猫、草や木、さらに小さくはカビやばい菌に至るまでいのちが宿っているのではありませんか。この地球上はまさにいのちのオンパレードです。そして、いのちが共存しあったり、奪いあったりしています。これは動物も植物も一体となって、「食物連鎖」しているといいます。「いのちの連鎖」ともいえるわけです。その中で、人間だけが同じ人間同士で奪い合いや殺し合いをします。大きくなれば戦争といった大量殺戮に及びます。
先日、ある友人から面白い話を伺いました。彼は山登りの仲間といっしょに東北の名山、白神山に登ったそうです。そこでその白神山系に自生しているブナの原生林が世界遺産になっていることを知りました。白神山の景観もさることながら、広大な地域に自生しているブナが前人未到のまま、何千年にもわたり原生林になっていたことに驚かされます。これほど広大で、長年にわたりブナ林が保たれていることが珍しく尊いということで、世界遺産になったというのです。さて、その彼は山林を持ち、林業を営むところから色々な木を育てたり、その木を用材として出荷したりしています。その彼は言うのです。実はブナは、漢字で木で無いと書くように用材としてはどうにも使い物にならない木なのです。ブナの特性で、木にたくさんの水分を含んでいます。山の上の方に生えている木でも、朝になると、木の枝や葉先から水が滴り出てきます。山の上の霧やかすみからでも水分を吸収するのでしょうか、まことに不思議な性質です。従って木が大変重く、腐りやすく、さりとて庭木にもなりません。まさしくどうしようもない木というところから、木で無い、「?」という字が与えられたのでしょう。林業の上からでも価値がゼロに等しいというのです。ところがそのことが幸いしたのでしょうか。長年にわたり伐採をまぬがれ、見向きもされず、原生林のまま生き長らえたわけです。そして世界一のブナの大群生地として評価されることとなりました。また、広大な原生林の効果として水や空気を浄化したり、環境の上からも人類に多大の貢献があると見直されることとなりました。そしてこれからも世界遺産として長く保護され、同時に人類に大きく貢献してくることでありましょう。
さて、このように言う彼は、このブナの生き方を見直すにつけ、私たち人間自身の生き方も大いに反省させられたと言っています。

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