おはようございます。前回は、いのちの輝きについてお話しました。
さて、私のいのちや人間の個々のいのちは「生命」といいます。個々に個別に囲われた小さないのちを生命といいます。そして、その小さい生命の外にあって何物にも囲われず捉えられないで自由にはたらいているいのちを「大いなるいのち」とか「宗教的いのち」と言っているようです。いのちといえば、私の中に宿るいのちしか考えられない人は、私のいのちが無くなると世界の全てが無くなるような気がします。そして、私の持ち物の全てが無くなると思うので、せつなくなり、死を恐れます。
ところで、北海道の大谷派のお寺の住職夫人で鈴木章子さんという方の詩がたくさん残されています。この方は若くして癌で亡くなられたのですが、病床にあって癌と闘って、たくさんの詩を残しておられる中の一つが、探求社発行『癌告知のあとで』に収められている『変換』という題の詩です。ちょっと読んでみますので聞いてください。
- 変換
死にむかって 進んでいるのではない
今をもらって生きているのだ
今ゼロであって 当然の私が 今生きている
ひき算から足し算の変換
誰が教えてくれたのでしょう
新しい生命
嬉しくて 踊っています
“いのち 日々あらたなり”
う~ん わかります
こういう詩ですが、私たちのように頭だけで理解してそう思うだけでは、なかなか難しいことです。ただこのことを考えさせてもらう手掛かりとして、「生命」という漢字の意味について、平凡社発行、著者は白川静氏の『常用字解』という辞書をひいてみますと、生命は「生」も「命」も「いのち」と読むが、意味には違いがあって、「生」は大地から芽が吹き出て、双葉が開いている形をあらわした文字で、物質的ないのちの営みをあらわしている。それに対して「命」の方は、解きほぐすと、人間がひざまずいて、頭に儀式用の帽子をかぶり、前に誓いや祈りの言葉を書いたものを置いて神に祈っている姿からきている文字である。ということは、「命」というのは、神によって賜ったいのちという意味をも含んでいるというのです。鈴木章子さんは「いのち日々あらたなりう~んわかります」とおっしゃるのです。私のいのちは私よりももっとさらに大きないのちに包まれていると感じ、その大きな世界に向かって頭を下げることは、私自身が死んでも、それは外の大いなるアミダのいのちに帰っていくということなのでしょうか。しかし、この宗教的いのちを頭で理解しているだけでは、死を超えるとはいえません。頭だけで理解し、そう思うだけでは、やはり死にたくないという思いが残るでしょう。しかし、何かの大きなきっかけで、この小さな私のいのちの外に大いなるいのちの世界があると気づいたら、また感じた人は、死の意味が今までと違ったもの、それこそ「変換」になるのでしょうか。形が無く、目で見て捉えることが出来ない大いなるいのちは、感覚的に心の奥でわかるのかもしれません。
ところで、俳句の小林一茶ゆかりの東京都足立区の炎天寺が、全国の小中学生から俳句を募集し、優秀作を表彰しているのですが、そうした中で、入選句を出す、大人の俳句名人も脱帽の子供達に、「一体どんな時にいい句ができるのかな?」と聞くと一様に、「心がやさしいときいい句がうかぶんだよ」と言います。俳句はまさに一人称の世界表現ですから、いのちのぬくもりがかもしだすやさしさがあらわれるときに、良い俳句が生まれるのでしょうか。