ラジオ放送「東本願寺の時間」

久保 博巳(香川県 深妙寺)
第6回 「いのち」って何だろうか 最終回 [2009.8.]音声を聞く

おはようございます。前回は、物質的ないのちにこだわり、自分の死にひっかかっている私たちの姿をお話しました。
さて、私たちは、自分も含めて、子供たちに一生懸命になって、子供の言うとおりにしながら、「勝ち組」になるために何もかも与えていると思っています。けれども、子供からすれば、一番大事なオンリーワンを奪われて生きているのかもしれません。それが証拠に、生活の実感として、いのちからの促しという感覚が鈍化しているように見えます。2000年東本願寺発行の冊子に、ある女子大生の書いた手記が紹介されていました。ちょっと読んでみます。「これといった理想もありませんこれといった恋人もいません毎日がなんとなく過ぎ去るだけですだけど不安なのです友達もいますしかし、心底話しあえる友はいません適当におしゃべりしているだけです自分も偽者ですだから、まわりをとやかく言う気にはなれませんだから、自分もまわりも好きにはなれませんだけど、さみしいのです」最後の言葉がひびきますね。ものは溢れるばかりにありますが、誰かと深くつながっているという実感がありません。全てがものと置き換えられるとして、生きているいのちそのものが、全く見えなくなってしまっているのです。「仏さまの大きな慈しみの唯中で生かされて生きている私である。しかもそれを忘れている私である」と、色々なところで教えてはくれていますが、生活は間に合っているのでしょう。東本願寺では、首都圏で浄土真宗のみ教えを知ってもらうために、一軒一軒家を訪ねて、今東本願寺ではこういうことをやっていますと案内しても、なかなか戸を開けてもらえないとのことです。やっと戸を開けてもらって、こういうことをやっていますとビラを渡そうとすると、一言「間に合っています」と断わられるようです。
ところで、先日、たまたまキリンの赤ちゃんが生まれる瞬間をテレビで見ました。赤ちゃんは生まれた瞬間からもう長い足で立ち上がろうとします。最初はうまく立ち上がれず、ひっくり返り、ハラハラさせられましたが、しばらくするとうまく立ち上がるようになりました。キリンに限らず、たくさんの動物は生まれてすぐ立ち上がり、親の乳首を吸えなければ死んでしまうほど、自然界に生きる動物達には厳しい現実があります。一方私たち人間は、立ち上がるまでに一年半ほどかかります。ちなみに、平凡社発行、著者は白川静氏の『常用字解』という辞書を調べてみると、育つという字は、上のムのような形と月とからなっていて、上のムのような形は子という字が逆さまになったもので、月は肉片ですから、肉が付いて寝ている子供が立ち上がることのようです。ということは、人間は生まれたら必ず先に生まれた人の世話にならなければ生きていけないいのちなのです。その長い成長期に、自分を守ってくれ、支えてくれるものを一生懸命に捜しているのでしょう。浄土真宗の言葉で言うとすれば、「人間は念じられていることに感じ、応答するいのちをもつ存在である」ということでしょうか。そういう意味では、私といういのちは、私以外の一切のいのちあるものの代表としてあるということです。もう少し別の言葉で言うなら「かけがえのない私」で、みんなかけがえのないいのちの私なのです。ところがもう一つあって、「大したことのない私」です。それについては、かつてウーマンリブで活躍し、今は鍼灸師をしておられる田中美津さんが、インパクト出版会発行の『かけがえのない、大したことのない私』の中で、「かけがえのない私、大したことのない私を生きる」とおっしゃっています。私たちは、かけがえのない自分と大したことのない自分を行ったり来たりしているのです。やっぱりそんな自分と向き合うのが一番しんどいでしょうね。自分が過去にマイナス評価していたであろう受け入れられない自分の姿が今の自分だったらどうでしょう。ありのままの自分として受け入れることが、自分を愛して生きることだと、頭ではわかっているのですが、難しいことですね。しかし、そういう大したことのない私だけれども、悔いなきいのちを生きてほしいという願いがかけられた「かけがえのない私」であることを念じて、今生きていることを精一杯、南無阿弥陀仏と申して生きていきたいものです。

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