ラジオ放送「東本願寺の時間」

久保 博巳(香川県 深妙寺)
第3回 「いのち」って何だろうか その3 [2009.7.]音声を聞く

おはようございます。前回は、いのちは人間だけのものではないということで、お話をしました。
さて、人間はより良く生きよう、自分を活かそうというとき、どう考えるのでしょうか。できれば大きな財産を築きたい、何か大きな業績をあげたい、人の上に立ちたい、若い人の中にはタレントのようにテレビに出たり、有名になりたいと思うものです。これはなにも悪いことではありませんが、誰にでもできることではありません。世間ではよく、「世の中で一番楽しく、立派なことは、一生涯を貫く仕事を持つことである」と言われています。人間として尊いことであり、また幸せになるために大切なことは、特に気の利いたことができなくてもいいし、その必要もなく、ただコツコツとでもいい、自分にやれる仕事で一生をつらぬくことであるというのでしょうか。昔、明恵上人という方は、「人は、あるべきようわの七文字を保つべきなり」と言っています。人間は一人一人さまざまです。生まれも違い、育ちも異なり、与えられた立場も違います。さらには性格も能力も好みもさまざまです。そこで誰にでも言えることは、各自の「あるべきようわ」を守ることが大切だというのです。特に気の利いたことを心掛けなくても、自分のやるべきことをコツコツ守り貫いていくことです。そのうちに自らの持てる力も出てきます。そして、やがて自分のやっていることに誇りも感じ喜びも味わえるようになります。それがまた、自分を活かすことになるのではないでしょうか。さて、前回お話したブナの話に戻りますが、桜は桜、松は松、ブナはブナで、その「あるべきようわ」が発揮されるところに尊さが出てくるのです。そしてその本来の生き方がそれぞれのいのちの絶対的なあり方なのです。ところで、浄土真宗の教えの中で重要な意味を持つお経の一つに阿弥陀経というお経があります。その中の一節に、お浄土にある大きな蓮の花を表現したものとして、「青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光」と説かれています。青い蓮の花には青い光が輝き、黄色い蓮の花には黄色い光が輝き、赤い蓮の花には赤い光が輝き、白い蓮の花には白い光が輝いて、まるで「輝けいのち」とばかりに、それぞれのいのちが花開いて輝いていると表わされています。それこそ、あらゆるものが満天の星空のように関わりを持ちながらもそれぞれに独立し、それぞれが尊重されて、生き生きと表現されている世界がお浄土であると説明するために、こうした蓮の花の表現をしているのでしょう。
さて、今、ある老人ホームにお話をさせてもらいに行っています。そこは要介護度の高い人ばかりが生活しているホームですので、お話といってもあまり長くは持ちこたえられません。そんなご縁で、先日そのホームでの運動会に招待されました。こんなことを言っては失礼ですが、結構面白かったですね。ホームのホールでする運動会ですから大掛かりではありませんし、大半の方が車椅子を必要とする人ばかりです。それでも、借り物競争ならぬ借り人競争をしたときは微笑ましく思いました。借りられ人にはなんて書いてあるかわからないことをいいことに、“いちばんきれいな人”とか“いちばんやさしい人”まではいいのですが、“意地が悪い介護士”“気に入らない職員”とか書いてあったりして、それはそれで大いに盛り上がったんです。介護度が高いので、日頃は車椅子の生活で、誰が見ても立てないだろうと想像できるわけです。ところが、車椅子を後ろから職員とか家族の人が押すかたちでヨーイ・ドンってするのですが、立てないはずと決め付けているあるおばあさんが、“ヨーイ”と聞くとすっと立ち上がったりして、立ったのはいいが、そのまま前のめりになってトットッと歩いたりするわけです。そんな姿を見ていて、年をとって身体が思うように動かなくなっている状態かもしれないが、それこそおばあさんの色でいのちが輝いているのです。帰りに、“おじいさん、長生きの秘訣は何ですか?”って聞くと、“息をすることを忘れないことだよ”とユーモアたっぷりに応えてくれました。

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