ラジオ放送「東本願寺の時間」

茨田 通俊(大阪府 願光寺)
第2回 今、いのちがあなたを生きている [2009.8.]音声を聞く

おはようございます。これから親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」について、お話を進めて参りたいと思います。
さて、「今、いのちがあなたを生きている」という御遠忌テーマを耳にして、何かおかしな表現だなと思われた方も多いと思います。「私がいのちを生きている」ならまだ分かるのだけれど・・・というのが正直なところではないでしょうか。
誰もが一度限りの人生を有意義に生きたいと願っています。そして楽しく快適に過ごすことが充実した人生だと思い込んでいます。そのためには悲しいことや苦しいことは経験したくないのです。どうやって悲しみから逃れるか、どうしたら苦しみを避けられるか、と考えつつ、迷い続けているのが私たち人間です。
「私がいのちを生きている」とするなら、いのちは私のものです。いのちを我がものと考えるからこそ、人生を自分の思い通りにしたい、悲しみや苦しみのない生活がしたいという願望に支配されることになるのでしょう。ところが自分の思うに任せないのが人生です。その事実を見据え、自分の思いを超えたものから私自身が問われる時、不都合なこともすべて含めて、この私であることが本当に有り難いといただける世界が広がるのではないでしょうか。
御遠忌テーマでは、いのちの字が仮名で表現されています。単なる生物としての生命の意味を超えた大自然の営みなどを感じる時、漢字の「命」ではなく、平仮名で「いのち」と表現するのが近年の傾向のようです。しかし御遠忌テーマの「いのち」には、さらにもっと深い願いが込められています。
親鸞聖人が著された正信偈という偈(うた)があります。真宗の教えを聞いている人には馴染みの深いものですが、この正信偈は「帰命無量寿如来」という言葉で始まります。御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」の「いのち」とは、その無量寿如来のことを表しています。
無量寿とは量り知れない寿命、尽きることのない命という意味です。ですから無量寿如来とは、量り知れないいのちを名前としていただく仏様ということになります。それは即ち阿弥陀如来のことです。一切の迷える人々を救い取るためには、阿弥陀如来の慈悲のはたらきに限りがあってはなりません。この私を超えた、阿弥陀如来の量り知れない営みを、御遠忌テーマでは仮名の「いのち」として表現しているのです。このいのちは、私の命と別に存在するものではなく、私そのものとなって、私を支えて下さっているはたらき、とでも言うことができます。私を目覚めさせ、私を真に生かす力となってはたらくものです。
そして過去や未来に心を奪われ、「今」という時を見失っているのが私たちです。そんな私たちに対して、この今という瞬間(とき)を空しく過ごすことなく、あるがままの我が身に目覚めてしっかりと生きよ、と如来が呼びかけて下さっているのです。
こうして見て来ますと、御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」は、「〔他でもない〕今、〔限りない〕いのち〔という名の仏〕があなたを生きている」といただくことができます。それは、自分を真に生かす力が今この瞬間もあなたを生きているのだということに目覚めよ、と如来そのものが呼びかけて下さっている言葉です。
さてこのように解釈はできるのですが、この限りないいのちに私たちが目覚めさせられるのは、いったいどんな御縁を得た時なのでしょうか。それは人生に真剣に向き合う中で、自分の力の限界に立たされた時に他なりません。避けることのできない悲しみや苦しみに出遇った、まさに「今」こそ、如来の呼び声がはっきりと聞こえて来ると言ってよいでしょう。実はそれが南無阿弥陀仏というお念仏そのものなのです。
次回からは、私自身の体験に基づきながら、この限りないいのち、無量寿との出遇いについて、ご一緒に考えて参りたいと思います。

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