おはようございます。今回も親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」について、お話を進めて参りたいと思います。
私たちが抱く感情の中で、最も抑えられないものは怒りの感情ではないかと思います。私自身も生きていく中で、理不尽な結果に対してはどうにも我慢がなりません。そんな時、私はいつも正しい側に居ますし、怒りの対象は常に悪でしかありません。しかしいくら相手を憎んでも、私の心は晴れることがありません。
今日は、親鸞聖人七百五十回御遠忌に向けて作られた御遠忌テーマソング「今、いのちに目覚めるとき」の2番を聴いてみましょう。
- どうにも抑えられない 憎しみはあるけれど
- ふるえる思いの中から 私に問いかけるものがある
- あなた自身はどうなのかと 問われたときから生きられる
- このかけがえのない私に いのちが今、ときめく
ここでは、許し難い憎悪のために苦しむ者が、如来のいのちからの問いかけによって、自分は正しいという自己執着の闇が破られ、そこから新しい歩みが始まることを語っています。
私は自動車の運転免許を取って、もうずいぶん長くなります。ところが最近初めて人身事故を起こしてしまいました。自動車で交差点を右折しようとした時、対向車に気を取られて、こちらに向かって来る自転車に気が付くのが遅れ接触してしまったのです。急いでいて気持ちに余裕がなかったこと、たまたま自転車が通りかかったことなど、幾つもの条件が重なって、事故という結果になってしまいました。幸い相手の人も軽傷で大事には至りませんでした。しかし場合によっては、私が人を殺めることになったとしても何もおかしくないということを思い知りました。
親鸞聖人の言葉を書き留めた『歎異抄』という書物の中で、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と言われています。そうなるべき条件が整えば、私たちは何をしでかすか分からないというのです。私たちの存在や経験は、すべて様々な条件によって成り立っています。ですから条件が整えば、私は善い行いもするでしょうが、またとんでもない悪い行いもしてしまうということです。
人に迷惑をかけずにおこうと思っても、必ず人の世話にならなければ私たちは生きていけません。交通事故を起こそうと思って起こす人はまずいないでしょう。そういう私たちであるにもかかわらず、犯罪を犯した人間を特別な目で見ていないでしょうか。生い立ちや環境など条件次第で、私が過ちを犯した人と同じ境遇に陥っても決しておかしくないのです。
私は間違っていないという態度は、自我にとらわれた姿に他なりません。悲惨な戦争も、私は正しいという思い込みによって引き起こされるのです。私が、私がという自己中心的なものの見方しかできないのが人間です。そして自分は正しいという思い上がった心が自らを苦しめていることに、私たちは気が付きません。私の側からものを見ている限り、私の苦しみは増すばかりです。私を超えたものによって私自身が問われる時、初めて自らの心の深い闇に気付くことができるのです。如来は私を生きるいのちとなって、「あなたはそれでよいのですか」と問いかけて下さっているのです。