おはようございます。今回も親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」について、お話を進めて参りたいと思います。
今日も、親鸞聖人七百五十回御遠忌に向けて作られた御遠忌テーマソング「今、いのちに目覚めるとき」の3番を聴いてみましょう。
- 辛い涙に暮れる日は 決して尽きないけれど
- 私が絶望しても 私を見捨てないものがある
- 私を生かすはたらきに 目覚めたときから生きられる
- このかけがえのない私に いのちが今、かがやく
- いのちが今、かがやく
これは、絶望感から生きる気力をなくした者に、如来のいのちが真に生きる力となってはたらくというものです。すべての悩める人々を救おうとする阿弥陀如来の大いなる慈悲の世界を描いています。
ところで人間が一番考え深くなるのは、人の死に出遭った時ではないでしょうか。特に身内の死は、私たちが普段の生活の中で忘れている厳粛な死という事実を思い起こさせてくれます。仏教では、生まれ、老い、病を得て、死ぬという四つの苦しみとして人間の生存を捉えます。私たちが決して避けることのできないこの生老病死の事実を、亡き人は身をもって示して下さいます。それは、私が真実の教えに出遇うことのできる大切な御縁になります。私たちはまさに人との関わりを通して、私を生かすはたらきに目覚めることができるのだと思います。
私の祖母は今から8年前、満90歳になる直前に亡くなりました。晩年まで非常に元気に過ごしていた祖母でしたが、ある時体調を崩して動けなくなりました。病院で検査をしてもらうと、進行したガンに侵されていることが分かりました。命はよくもって1ヶ月ということでした。
時を同じくして、私の初めての子どもの出産予定日が近づいていました。祖母の入院から約ひと月の間、私の目の前で、人間が生まれて来るのと死んでいくのとが同時に進んでいったのです。まさにひとつの命が生まれようとする時、ひとつの命が消えようとしていました。生まれて来るいのちと死んでいくいのち。生き死に、生死と書いて仏教では生死(しょうじ)と読みますが、その生死のあるがままの相(すがた)を私はしかと見つめることになったのです。
祖母が日に日に衰弱していく中、我が子はなかなか生まれませんでした。出産予定日から17日が過ぎた日の早朝、出産に備えて入院していた妻が分娩室に入ったと電話で連絡がありました。急いで駆けつけた病院で、私は初めての子どもの出産に立ち会うことができました。生まれて来た女の子は、私の腕の中で力強くうごめいていました。それは死すべきいのちの誕生でした。祖母の死が背景になければ、私は長女の誕生を、単なる生命の讃歌として捉えただけだったかも知れません。今にも消えようとしている祖母のいのちが、限りあるが故にかけがえのないいのちの尊さを実感させたのでした。
祖母は長女が生まれて9日後に亡くなりました。生まれて来た以上決して避けることのできない死。死が必ずやって来るからこそ、誰とも代わることのできない人生を、私はしっかりと生きていきたいという思いに衝き動かされました。それは、祖母の死という絶望の淵から発せられた、いのちそのものの願いだったのではないでしょうか。