ラジオ放送「東本願寺の時間」

木津 祐昌(福井県 智敬寺)
第1回 人生の要 [2009.9.]音声を聞く

おはようございます。今朝は「人生の要」と題してお話しをさせていただきます。
私たちの人生の本当の要・生きるよりどころとしての宗を明らかにして教えて下さった親鸞聖人を、浄土真宗の宗祖と仰ぎます。
要とは、扇の骨をとじ合わせる為にはめられているくぎのことであります。このくぎ一本で扇の骨がきちんと止められて扇が機能します。しかし、くぎが外れてしまったら扇はバラバラになり扇として機能しません。要のくぎは扇にとって最も大切であり、扇のいのちであります。
私たちの人生も扇と同じことではないでしょうか。骨の一本一本は、これまでさまざまなことに出遇って、今生きている人生でありましょう。嬉しいこと・楽しいこと・苦しいこと・辛く悲しいことなどに出遇ってきた人生が、要のくぎ一本で統一されることによって深い意味が見出されます。しかし、くぎが外れてしまったら、これまで出遇ってきた人生がバラバラになり、単なる思い出になるか、愚痴と後悔ばかりとなって、今が空しく過ぎ去ってしまいます。だから私たちには、何を人生の要として生きるのかが、非常に大事なことになります。
では、私たちは何を人生の要としているのでしょうか。それは、一人一人異なることでありましょうが、おおよそ私の外なる物・即ち健康であるとか、仕事やお金・名誉・趣味などの外なる物と、私の外なる人・即ち家族・友だち・同僚、先輩などの他人を要としているのではないでしょうか。勿論これらの外なる物や他人は、私が生きていく為には大切な物や人であります。決してどうでもよいということではありません。しかし、問題は外なる物や他人は失うべき諸の条件が整うと、失ってしまうものばかりであるということです。そして、これらの要を失った途端に生きる望みを失い、現実を愚痴り、嘆き、恨みごとで人生が空しくなってしまいます。どうやら私たちは、外れやすいものを人生の要としているのではないでしょうか。
では、いついかなる時にも外れずに、きちんと止まっている要のくぎとは何でしょうか。それは親鸞聖人が二十九才の時に法然上人に出遇い、教えていただいた阿弥陀仏がすべての人々にかけている深い願いに目覚め、念仏を称えれば仏の悟りを開くという教えであります。聖人はその教えを心を傾けて聞きぬき、仏の願いが受けとめられて、人生の方向が転換し、仏の願いを要として生きることを表明されました。そのことを聖人は、自ら書き著わされた『教行信証』に方向転換された年号を入れ、感動をもって記しておられます。
阿弥陀仏の深い願いは、一人も漏らさず、嫌わず、見捨てず、選ばず、斉しく南無阿弥陀仏の名号を称えさせて救いたい、もし救えなければ仏にならないと、仏の命をかけて誓われている願いです。この願いの教えを、現在仏の願いに目覚め、念仏を称えて生きている人のことばを、心を傾けて聞きとる時に、自分の都合の善いことだけを受入れ、悪いことを排除しようとして、自分で人生を狭く閉ざし、暗く生きている私自身の問題性に気付きます。同時に自分の都合を中心にしてしか生きられない愚かな私を丸ごと認め、寄り添い、真実の世界・浄土へと導いていて下さる阿弥陀仏の深い願いに従って念仏を称える身となります。そして、都合の善し悪しに囚われていた心が捨てられて、現在只今の人生をいのち一杯に生きる人と、方向が転換いたします。
阿弥陀仏の深い願いは、いかなる人生の中に身をおいても生きられる本当の要・真実の宗・浄土真宗であります。
親鸞聖人は、人生の本当の要・生きるよりどころとしての宗を明らかにして教えて下さった祖師・宗祖であります。

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