おはようございます。今朝は「賜わったいのちを生きる」と題してお話しをさせていただきます。
私たちが人として生まれ、今こうして生きていることは、数字で計り、言葉でいい尽せない極めて稀なことであります。このことは一人一人に阿弥陀仏の深い願いがかけられている賜った尊いいのちであると理解します。
しかし、私たちはその賜った尊いいのちを本当に生きているのでしょうか。人生が私の願った通りになれば喜び、気力も充実してやる気満々になりますが、一度願った通りにならない事に出遇うと、その原因を外なる事、外なる人に求めて、不運と思い人生を諦めて無気力になるか、不満や恨みを抱いて空しい日々となるのではないでしょうか。
この近年「誰でもよかった」と、無差別に多くの人の尊い命を奪い重軽傷を負わすという理不尽で残酷な事件が度々起きています。ある事件では「社会から疎外され誰かに八つ当たりしたかった」、また別の事件では「負けっぱなしの人生、希望ある奴にはわかるまい」というような言葉が加害者の供述として報道されています。彼らは全く自己中心的で、自分勝手だと思います。何の関わりも理由もなく突然命を奪われる人には、これからの人生があり、愛する家族友人が居て、これらの人々を深く悲しませ、辛く苦しい思いを長くさせ、不幸のどん底に突き落してしまうことを、全く思い遣ることができなくなって人間性を失ってしまったのではないでしょうか。
これらの犯罪から、現代社会が抱えている孤独と、人間に対する価値観の問題が見えてきます。「社会から疎外され自分だけ苦しい思いをしている」とか、「負けっぱなしの人生」とか、孤独になっていることと、自ら人間としての値打を勝組・負組でしか見ることができなくなっていることです。
孤独といっても、周囲に全く人が居ないのではありません。家族も同僚も近所の人々も居ながら自ら心を閉ざし、孤独になってしまったのではないでしょうか。
なぜ自ら心を閉ざしてしまうのでしょうか。それは自分の都合に合うか合わないかという物差しで人を選ぶからでありましょう。また人間の値打を、優れている劣っている。勝組・負組。役立つ役立たないことで評価しています。そして彼らは自分を、劣った者、負組と思い込み社会を恨み怒りを爆発させ、多くの人の尊い命を奪ってしまったのではないかと思います。しかし、この孤独や価値観は、彼らだけが持っているものではなく、現代の競争社会の中で、私たちも持っていることは否定できません。そして都合に合わない人や劣った人・負組・役立ない人と評価して、その人たちを蔑み、無視し排除している社会もこのような犯罪を起こす外的な縁の一つになっているのではないでしょうか。
真宗大谷派の教えを担い、多くの宗教者を育てた安田理深先生は、「人間は偉いものではない尊いものです」と言われました。「偉いもの」とは比べて優劣・勝ち負け・役立つ役立たない、という価値の評価でありましょう。「尊いもの」とは、比較して価値を判断する必要がなく、存在それ自体が尊いもの、と受けとめられる眼でありましょう。
何故存在それ自体が尊いのでしょうか。それは私たち全ての者が、阿弥陀仏から斉しく救いたいと深く願いをかけられているからであります。この阿弥陀仏の願いを聞き、願いが受けとめられるところに、「人間は尊いもの」と目覚めて、孤独から解放され、優劣、勝ち負け、役立つ役立たない評価を問題とせず、あるがままに賜わったいのちを一杯に生きることができるのであります。
「人間は尊いものである」との価値観は、今、現代社会に最も必要な人間に対する眼差しであると思います。