おはようございます。今朝は「今を生きる」と題してお話しをさせていただきます。
「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマは、親鸞聖人から私たちに「今、阿弥陀仏のいのちがあなたを生きていますよ、このことに目覚めて真実を求め、いのち一杯に私と共に生きてほしい」と願われ、呼びかけられている言葉と受けとめております。
このテーマから私は、今という時を本当に生きているのであろうかと問題になります。過去の成功や失敗にいつまでも執着して、今を思い出だけに耽っているか、愚痴と後悔ばかりで不運を嘆き、明日が思った通りの幸せになることを夢見て、今を浮ついて生きているのではないでしょうか。過去に囚われ、明日を夢見て生きているならば、それは本当に今を生きているとは言えません。
かつてこのような幽霊の話しを聞いたことがあります。幽霊には足が描いていない、そして地面から浮いている。頭の髪は長く後に流れ手首を下げて恨めしい、と柳の木の下に出ている絵をよく見て考えなさいと言われました。この幽霊の姿は私の生きざまを描いているのです。つまり足が描いていなくて浮いている姿は、しっかりと大地を踏まえ今を生きていないことを表わしている。頭の髪が長く後に流れているのは、過去のことにいつまでも囚われている姿で、手首を下げているのは未来が開かれず、今の世に恨みを抱いて恨めしいと言って出てきているのである。この幽霊の姿は死んだ人の姿ではない。私たちの現実の生きざまではないか、と私の生きざまを言い当てられて頷くほかありませんでした。
仏教では時を、過去・未来・現在という順序で表現することがあります。過去から現在へ、現在から未来へとつながる順序とは意味合いが違います。過去・未来・現在という順序は、過去も未来も現在に収まるということであって、現在が最も大事な時であるという意味でありましょう。仏の教えに出遇い、現在只今が明るく開かれるならば、どのような過去であっても大切な意味が見付かり、後悔したことは、「あの辛い失敗があったおかげで、大事なことを知ることができた」と功徳に転じます。また未来のことも、阿弥陀仏の願いに人生を託し、教えを聞く人々と共に念仏を称え、今をいのち一杯に安らいで生きる身となるのであります。
私がお預かりしているお寺にご縁のあった女性のことをお話しいたします。この女性は十五年前に亡くなりましたが、二十才代の頃より仏さまの教えをよく聞いておりました。この人が六十五・六才の頃に、癌の疑いがあって入院しました。そこでお見舞に行った時のことです。私は住職になって年数も浅く、どうお見舞の言葉をかけたらよいものか、不安なまま病室の前まで行きますと、明るい笑い声が複数聞こえました。入ってみると四人部屋の四人共に楽しそうに話し合っていました。するとこの女性は私に向かって「住職、私は癌の苦しみの為にのたうち回って死ぬかも知れない。畳かきむしって死ぬかもしれないが、私は私にたまわった人生を尽していきますよ」とはっきりと言いました。私はその言葉と態度に驚くと同時に、深く感銘したことを四十年過ぎた今でも思い出します。
仏の願いの教えを要として生活していることで、自分自身の現実と向き合い、現実を受け入れる視点をいただきます。そして現在只今をあるがままに生きられるお育てを受けています。さらに、不安と恐れがあるであろう未来のことは、「私にたまわった人生を尽して行きます」と、阿弥陀仏の願いに人生を託し、安んじて悠々と生きる身になっていました。
今を本当に生きることは、仏の願いの教えを縁ある人と共に聞き、願いのいのちに目覚めて、願いに従って念仏を称えて生きることを人生の要とすることであると理解しています