ラジオ放送「東本願寺の時間」

木津 祐昌(福井県 智敬寺)
第6回 いのちのリレー [2009.9.]音声を聞く

おはようございます。今朝は「いのちのリレー」と題してお話しをさせていただきます。
いのちのリレーは、ただ生物的な生命だけを言おうとしているのではありません。私たちが生まれながらにして持っている精神といいましょうか、先祖たちから代々に亘って受け継ぎ伝えられてきた精神、即ち仏の願いのいのちであります。
私が住んでいる町に竹沢八代重さんという八十半の女性が居られます。竹沢さんは川柳を作っておられるのですが、先日、「独り住む母を支える正信偈」という句を作られました。
『正信偈』とは、九州大谷短期大学名誉学長・古田和弘先生が、二〇〇八年に東本願寺出版部より出版された『正信偈の教え・上』の中に「『正信偈』は親鸞聖人が、ご自分のところまで伝え届けられた念仏の教えの伝統を深い感銘をもって受けとめられ、そしてその感銘を味わい深い詩(偈文)によって、後世の私たちに伝え示してくださったものなのです」と書かれています。
この川柳を読んで思いますことは、実家を遠く離れて住んでいる子どもが、老いて一人住んでいる故郷の母のことを案じつつ暮らしていた。正月休みに帰省してみると、母は明るく元気に暮らしていたので安心した。しかし、母は何故一人でも明るく暮せるのだろうかと思った。やがてその疑問は解けた。母は朝夕お仏壇の前で『正信偈』のお勤めをしていた。子どもは、一人暮しでも老いた母が明るく元気なのは、『正信偈』のお勤めにその源があったのだ、と気付き頷けたという情景であります。
親鸞聖人が伝え示してくださった念仏の教えを人生の要として生きている人々、即ち真宗門徒は、朝な夕なに『正信偈』のお勤めをどの家々でも勤めてきました。それは、今日一日の生活が、延いては人生全体が、仏さまのお用きの中に暮らさせてもらっていることを、知らさせてもらい、そのご恩を報謝する為に勤めるのであります、だからどのような人生を生きていても、仏さまの深いご恩の中に暮らす喜びを、お母さんは朝夕の『正信偈』のお勤めで確認できたのではないでしょうか。そこにお母さんが明るく元気に一人暮しができる源があったのです。このお母さんの姿を見て、この家の子どもは、この家に伝わる精神、仏の願いのいのちを受けとめ、継いだのではないでしょうか。
「独り住む母を支える正信偈」素晴らしい句だと思います。
私が住職になって間もない頃、それぞれのご家庭にお参りにいくと、どの家の人もお経が終った後で手を合せ念仏を称え、「ありがたい、おかげさまで、勿体ない」と言っていました。私はそのことを口ぐせだと思っていましたが、それは私の間違いでした。何故なら、「ありがたい、おかげさまで、勿体ない」と感謝しながらお参りしている人の身の上は、決して幸せと思える人ばかりではないことに気付きました。何年も重い病気をしている人とか、ご主人と死別し子供を何人も抱えて生活に苦労している人とか、経済的に苦しんでいる人など、辛い日々を生きていると思われる人たちが言っておりました。私が同じ境遇であったら、愚痴と嘆きと不平不満の言葉しか出ません。それを思うと、この人たちの喜びと感謝の言葉は決して口ぐせではないのです。代々受け継ぎ伝えられてきた精神、仏の願いのいのちの用きに出遇った人々の言葉であります。
仏の願いのいのちは、縁ある人々と一緒に教えを聞き、仏の願いに従って真実の世界・浄土を求めて念仏を称える身になった時、私の所までリレーされ届けられるのであります。そこに苦しみの人生が転換して、仏さまのお用きの中に生きている深い喜びと、感謝の心が自ら起きてくるのであります。

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