ラジオ放送「東本願寺の時間」

木津 祐昌(福井県 智敬寺)
第2回 人生の方向転換 [2009.9.]音声を聞く

おはようございます。今朝は「人生の方向転換」と題してお話しをさせていただきます。
どうにもならぬ苦悩を抱えて、生きる望みを失っている時に、仏の教えに出遇い、仏の教えに生きた詩人の浅田正作さんは、一九八八年に法蔵館から出版された『念仏詩集・骨道を行く』の中に「自分が可愛い/ただ/それだけのことで/生きていた/それが深い悲しみとなったとき/ちがった世界が/ひらけて来た」と詩っています。この詩を読んだ時、私が今どう生きているのかと、問われていると受けとめました。「自分が可愛い/ただ/それだけのことで/生きていた」という生きようは、私の日常では当り前のことで、そのことが何も問題になることもなく生きてきました。
しかし、浅田正作さんは、どうにもならぬ苦悩を抱え、生きる望みを失っている時に、救いの道を求め阿弥陀仏の深い願いに出遇いました。仏の願いに出遇うことは、私自身が阿弥陀仏の光に照らされるのであります。その時、今まで問題にならなかった自分の生きようが問題になってきます。私はこれまで自分の都合を中心にして生き、自分勝手で周囲の人々を苦しめ、迷惑をかけてきたことに全く気付かなかったと深く知らされるのであります。そのことを「自分が可愛い/ただ/それだけのことで/生きていた」と詩われたと理解します。そしてこのような愚かな生き方をしてきた自分が、深い悲しみ、痛みとなって自分が否定されるのであります。自分が否定されて、これまでの都合の善いことだけしか受け入れられず、自ら狭く暗くしている人生が方向転換して、都合の悪い中に本当に生きる道が開けます。浅田正作さんは、そのことを「それが深い悲しみとなったとき/ちがった世界が/ひらけて来た」と詩ったのではないでしょうか。
人生の方向転換は、私の思いや考え、努力ですることは、なかなか容易なことではありません。何故ならば私たちには、自分の都合に執着する心が根深く強くあって、自分の考えを正当化しているから本当のことがわかりません。だから貪欲になり、怒り憎しみ、自分を驕り、他人を軽蔑し、本当に信ずることができないなどの心を根本として、無数の煩悩を具え持っていて、条件次第でどうなるか分らない存在が私たちであります。だから自分の力や努力で、人生の方向を転換させることは非常に困難なことであります。そのような私たちには、阿弥陀仏の願いの力、お用きによって人生の方向転換が起ります。
親鸞聖人は、念仏を称えて生きるものとなれという本願の教えを伝えて下さったインド・中国・日本の七人の高僧を讃えて作られた『高僧和讚』に、「本願力にあいぬれば/むなしくすぐるひとぞなき/功徳の宝海みちみちて/煩悩の濁水へだてなし」とうたわれています。現代語訳を一九八三年に法蔵館から出版された『真継伸彦現代語訳親鸞全集4』によれば、「一切衆生を救いたもう阿弥陀仏の本願の力の働きに出会った者は、迷いの世にむなしくとどまることがない。阿弥陀仏の功徳がその人に満ちあふれ、煩悩の汚れも無意義となる」と訳しています。
阿弥陀仏の深い願いに出遇った者は、必ず人生の苦しみが転換して、煩悩が意味を持ち、人生の真実の意味を見出し、人々と共に心豊かに生きる人となるのであります。
私事でありますが、私は6年前に急性心筋梗塞になりました。5日間集中治療室で安静にしていた時に、ふとお経の言葉などを思い出され、安らいだ気持で以後3週間の入院生活を送りました。退院後2ヵ月ほど経って、一軒ずつお参りをした時、ある念仏に生きている人に、そのことを話したところ「住職、大病を患って本当によかったね」と言われました。私はこの念仏に生きている人から、阿弥陀仏の深い願いに遇い、願いに従って念仏を称えて生きている人の人生には、無意味で無駄なことは一つもないことを教えていただきました。

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