おはようございます。今朝は「いのち」と題してお話しをさせていただきます。
いのちという言葉の漢字は、ことぶきと書く寿と、生命の命とがあります。寿は『国語大辞典』には、長生きする。命が長いと説明してあります。阿弥陀仏のいのちを無量寿と言います。即ち限りなきいのちであります。命は限りある私たちの生物的命のことであります。
これは独断でありますが、寿と命とが熟語になって寿命という言葉になっており、それには深い意味があるのではないかと思います。即ち私が今生きている命、私の身の命は、阿弥陀仏の限りなきいのちの用きである無量寿から生まれ、無量寿が私の身の命の基礎となって生き、私の身の命が終ったら阿弥陀仏の無量寿へ帰っていくという、無量寿の用きの中の命であるから寿命という言葉になったのかなと、勝手に思っています。
考えてみれば私の生命の源はどこにあるのでしょうか。両親に始まり、代々遡れば人類の祖先なのでしょうか。いや人類の歴史以前に地球上に生命が誕生した時でしょうか。それとも、もっと以前の地球誕生、宇宙誕生でしょうか。ともかく数字では計ることができない始めからなのでありましょう。仏教はそのことを始め無し、といいます。その生命の営みが今私に続いています。そして私の生命の内容も両親を始めとして、数限りない生命が途中で誰一人欠けることなく、私にまでリレーされ届いているのです。だから私が今ここにこうして人として存在していることは、極めて稀なことであります。受け難くして今人間として生命を受けているのであります。このことを寿命即ちいのちと受けとめられるのではないでしょうか。だから私が今生きている生命は、私の私有物ではありません。一人一人に賜った阿弥陀仏の願いがかけられている尊いいのちであります。
第二回目の放送でもお話しいたしましたが、私が急性心筋梗塞で入院した時に、主治医からあなたの心臓は三分の一が壊死していると言われました。しかし私にはその実感はありませんでした。実感したのは二週間目の頃に心臓のダメージ検査を受けた時です。パソコンの画面に私の心臓の動きが映し出され、説明を受けながら見ました。壊死したと言われた部分の動きは極端に鈍く、残りの部分は正常に動いていました。その時ようやく三分の一が壊死していることが実感できたと同時に、感動しました。それは私の傷ついた心臓が、私のさまざまな思いや思惑と一切関係なく、残った三分の二で懸命に全身に血液を送り出している映像を見た時でした。私の生命は、私を超えて賜っていることに頷かれました。そして生きていることは、私の思いや思惑を超えて、生きようとする私自身の賜った力と、生かそうとする数限りないおはたらきがあって、今私は生きているのだとこの身で知ることができました。
若い頃から浄土真宗の教えを聞き続けた詩人の榎本栄一さんは、一九八六年に樹心社から出版された『念仏のうた・難度海』に「障礙(しょうがい)に遇い/これが如来大悲のお育てとなり/わが棲む世界は/しんしんとふかくなり」という詩を載せています。障礙の礙は、石偏に疑うと書きます。つまり、ここでいう障礙とは人生での困難のことです。
人生に起きてくるさまざまな出来事に、苦しむ障礙に出遇ったことが縁となり、阿弥陀仏の願いの教えを聞く身となりました。そして阿弥陀仏の願いが受けとめられ、人生の障りに深い意味が見出される人として、お育てを受けています。
私たちの人生に障りがあり、悩むからこそ本当の救いを求めて、仏の願いの教えを心傾けて聞くことができるのであります。心を傾けて聞くから仏の願いに出遇い、願いに従って真実の世界である浄土を求めて念仏を称える生活が始まります。そこにどのような人生の中に身をおいても納得して生きることができるのであります。