ラジオ放送「東本願寺の時間」

保々 眞量(熊本県光行寺)
第1回 「如来の悲しみ」~苦悩~ [2009.11.]音声を聞く

おはようございます。
今日から6回にわたって、「今、いのちがあなたを生きている」という2011年に勤められる宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマのもと、「如来の悲しみ」と題してお話をさせていただきます。
私は、御遠忌テーマにある「いのち」とは、阿弥陀如来の「いのち」、すなわち「無量寿」といただいています。
そして、阿弥陀如来を「無量寿」すなわち「はかりしれないいのち」と言われるのは、その「智慧」と「慈悲」が、いつの時代に生きる人の上にも、はたらき続けていることをあらわしているのでしょう。
仏さまのお心は「慈悲」の心と言われますが、親鸞聖人は阿弥陀如来のお心を「大きな悲しみ」と書いて、「大悲」という言葉で数多く取り上げておられます。
つまり、阿弥陀如来という仏さまは、いつの時代に生きる人の上にも「悲しみの心」をかけておられると言うことができると思います。
なぜ、阿弥陀如来が人間を悲しんでおられるのかと言いますと、人間ほど苦悩し、迷いを生きているものはいないからでしょう。私たちは、ともすると、あらゆる生き物の中で人間が一番えらいと思い込んでいる節がありますが、果たしてそうでしょうか。
つい先日、うちで飼っていた犬が亡くなったのですが、亡くなる間際はかなり辛そうでした。獣医さんが言われるには肝臓も心臓も弱っているとのことで、息遣いも荒くなることが多く、食事もあまり取れなくなって、しだいに死が近づいているのも傍目にもわかるほどでした。しかし、それでもその身を引き受けて生涯を終えていったように感じました。動物にも病や老いという苦しみはあるのでしょうが、人間は苦しみだけにとどまらず、「なぜ、自分だけがこんな目に遭わねばならないのか?」とか「このまま死んでしまったらどうしよう」とか、苦しみだけではなく、悩まずにはおれません。苦悩するというのは、人間の特徴ではないでしょうか。私たちは、人間、私という身を生きていながら、都合がわるくなると、なかなかこの身を引き受けることができません。
お釈迦様は「人間は、苦しみを避けることはできない」と言われ、その苦しみの代表的なものに「老苦」~年を老いる苦しみ、「病苦」~病気になる苦しみ、「死苦」~死ぬという苦しみ、などがあります。しかも、「年は取りたくない」「病気になったらどうしよう」「どんな風にして死ぬんだろうか」というように、実際にそうなる以前から苦しむこともあります。前もって苦しむなんて、他の生き物にはありません。したがって、いつまでも「若く」「健康で」、それを前提として「死にたくない」と願いますが、それを求めれば求めるほど、老・病・死という絶対に避けられない現実によって、なお、苦しめられていくというありようをしているのです。仏教では、そういう迷いのあり方を「ひっくり返る」という意味の「?倒(てんどう)」と教えられています。
私自身、苦しみ悩むことが辛くて、仏教を学ぶことによって何とかその苦悩を取り除こうと、教えを聴き始めたのですが、和田稠(しげし)という先生から「苦悩するものを人間と言うんや」と教えられました。さらに「隣で泣いている人がおっても、悲しんでいる人がおっても、君だけは苦しみもせず、悩みもせず、そんなロボットみたいな人間になりたいんか」と問われ、ハッとしたことが忘れられません。
 苦悩そのものは救いではありませんが、苦悩に促されて大切な歩みが始まるのです。苦悩する者に呼びかけ、どこまでも捨てない如来の慈悲が、人間の苦悩のところにはたらいているのです。

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