ラジオ放送「東本願寺の時間」

保々 眞量(熊本県光行寺)
第5話 「如来の悲しみ」~愛~ [2009.12.]音声を聞く

おはようございます。
仏教では仏さまのお心を「慈悲」と表現しますが、それと似たものに「愛」という言葉があります。時には「慈悲」を「愛」として語られることもあります が、厳密にいえば仏教では「愛」は煩悩として教えられます。それは、人間に純粋な愛というものがなかなか成り立たないからです。「愛」は「愛憎」「愛着」 「愛執」などと表現されるように、純粋な愛だけを貫くことが困難なようです。
例えば、愛と憎しみは反対の言葉のようですが、昔から「可愛さあまって憎さ百倍」と言われてきたように、愛情が深ければ深いほど、その愛に応えてくれ ないものに憎しみや怒りの心が比例して強くなるということがあります。親しい間柄で殺人事件が起き、テレビで報道される時に「なぜ、よりによってそんな大 切な人を殺さねばならないのか」というようなコメントがよくなされますが、逆に「愛情が強いからこそ」ということもあるのではないでしょうか。
マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」と言われましたが、無関心な人、あるいは無関心なことに憎しみを持つこともありません。
なぜ、人間の愛が徹底できないのかと言えば、愛の根源に「自分が可愛い」という「我」への「愛」、すなわち「我愛」という心があるからです。その証拠に、よく指摘されることですが、集合写真を最初に見る時、必ずと言っていいほど自分から探すのです。
誤解のないように申し上げますが、愛情を注ぐことや愛情を持つことを否定しているのではありません。むしろ子育てなど、愛情がなかったら成り立ちません。
しかし、その愛情には、「我愛」が根っこに潜んでいますから、様々な問題が起こってきます。
人間の持っている愛の中で、親が子に対する愛情が最も深いと言われます。子どもが生まれると、親は無条件で喜んだりするものです。私自身も、子どもが病 気にかかったりすると、「代われるものなら代わってあげたい」とさえ思いました。そういうことは聞いてはいましたが、自分が親になって初めて知らされた感 覚でした。
ところが、子どもが大きくなるにしたがい愛が必ずしも無条件とはいかなくなります。親たちは、運動会でわが子が一等賞を取ると「あれが私の子どもだ」と 言いたくなりますが、走るのが遅いと、他人に自分の子どもだと教えようとはしません。高校に進学する時でも「お宅の子どもさんは、どちらの高校に決まりま したか?」と聞かれて、親の期待通り、あるいは期待以上の学校だと、胸を張って答えますが、期待を裏切るような結果だと、ちゃんと答えずに口を濁したりし ます。これらの態度は、子どものことを考えての態度ではないことは明らかです。親として自慢したいと我が子だと認め、恥ずかしいと思うと存在を消そうとす るようなものを抱えています。
私たちは、いかに人間の愛が問題を抱えているか、気付くことが大切ではないでしょうか。自分が可愛いという心を中心にして生きている事実を知らされることによって、他の人との出会いを本当に開くことがあるのでしょう。
私たちは「共に生きたい」「同じ思いを持っていてくれたら」と願っていますが、そこには「私と共に」「私と同じ思いを」ということが潜んでいます。その 「私と」というありようが如来によって破られる時に、初めて人と出会うということが起こるのでしょう。その如来のはたらきを「慈悲」と呼ばれています。

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