おはようございます。
本願寺第8代の蓮如上人がおっしゃったことに「神にも、仏にも、なれてくると、手でしなければならないことを足でするようになる」という言葉があります。
私も、日曜日など法事が重なった時に、よそのお宅では絶対にしないことですが、法事カバンや食べ切れない、包んでいただいた食事などを両手いっぱいに抱 え、恥ずかしいことですが、ついつい玄関の戸を膝小僧のあたりで開けたりしたことがあります。慣れている家だからこそやってしまうのです。
まあ、このぐらいのことは、と言ったらお叱りを受けるかも知れませんが、今後気をつけたら済むことです。
ところが、最近、この「慣れる」ということの恐さを改めて考えさせられることがありました。
数年前に、毎月お参りに行っているお宅の若い方の勧めで、インターネットをつなぐことにしました。インターネットは、その方がおっしゃった通り、すごく便利なもので、図書館まで行かなくても調べものが出来たり、いろんな情報を簡単に手に入れることができます。
しかし、インターネットを始めた当初、とても辛く、何とも言えない気持ちになったことがあります。それは、好きなアーチストの情報を検索していて、その 人のことについての掲示板と呼ばれるものを見たときのことでした。その掲示板には、そのアーチストに対する誹謗中傷、面と向かっては口にできないような凄 まじい言葉がたくさん並び、「殺す」「死ね」などと言った書き込みも多数ありました。その怒りや憎しみの感情がむき出しになった文字を前にして、何か現実 の世界とは違う、もう一つの人間の闇の世界を見たような感覚に襲われました。その日の食事は、ほとんど喉を通らないほどショックを受けたことです。
それなのに、それから数年が経ち、いつの間にかそういう掲示板の言葉を見ても驚かなくなっていたのです。慣れてしまったのです。
それでも、現実に何も起こっていないならいいのですが、インターネット利用が進んだある国では、有名な女優さんたちが、インターネットに書き込まれた自 分の誹謗中傷や、真偽のほどもわからない噂話などによって、次々と自殺にまで追い込まれたことが伝えられています。
日本でも、子どもたちの間で「学校裏サイト」なるものが存在し、匿名の人たちによって、特定の人を実名で「ウザい」「消えればいいのに」「死ね」といっ た内容の書き込みがされているそうです。そして、書かれた側の子は、学校に行くのも恐ろしくなったり、人が信じられなくなったり、自ら命を絶ってしまうと ころまで追い込まれたりしています。
最初に申し上げた蓮如上人のお言葉は、「如来や親鸞聖人、よき先生にも、慣れてくると気安く思うようになる。慣れれば慣れるほど、いよいよ大切に求める心を深くはこぶべきです」という言葉が続いています。
私たち人間は、大事なことでも、一度気付くとわかったつもりになっていますが、そのままにしておくと、本当に大切なものを見失ってしまうことがあるのです。そこに慣れてしまうことの危うさがあります。
仏法をいただくということは、一度気づいたことをわかったことにしないで、いよいよ教えを聞かなければならない身にかえっていくことです。そのことが有り難いのです。その教えを聞く身にかえすはたらきが、如来の慈悲でもあります。