ラジオ放送「東本願寺の時間」

保々 眞量(熊本県光行寺)
第3話 「如来の悲しみ」~人間の〈ものさし〉~ [2009.11.]音声を聞く

おはようございます。
前々回、前回と「如来の悲しみ」というテーマで、なぜ、如来は人間に悲しみのお心を振り向けておられるかということを、人間と他の生き物の違いを手掛かりにお話しさせていただきました。今回は、人間の〈ものさし〉というものの問題を取り上げてみたいと思います。
私たちは時折「自分の事は自分が一番よく知っている」と言います。そして、写真の自分の顔を見て「写真映りがわるい」と言うことがあります。では本当の自分はどういう自分で、写し出された写真の顔が違うように思うのでしょうか。私が本当の自分だと思っているのは、自分の中で一番いい表情をした時の顔だったりします。私たちは、自分の眼で自分の眼を見ることはできません。それで、鏡に映して自分の顔を見るのですが、鏡を見る時には、たいていの場合、今から出かける時とか、他人に見られても大丈夫なように、いい顔になったことを確認する時などが多いかと思います。その自分を本当の自分の顔だと考えます。ところが、私たちは、一日中そういう顔をしているのかというと、疲れ果てた顔をする時もあれば、怒って鬼みたいな形相になる時もあります。いい顔をしている時の自分が自分だけではないのです。いろんな顔をしているすべてが私の姿です。自分の都合のいいように物事を見ていくクセがあります。
私には三人の子どもがいますが、部屋が足りないので個室を与えていません。それで子どもたちは、中学生、高校生になった頃に「自分の部屋が欲しい。どうしてうちはこんなに部屋が少ないの?」と言ってきたことがあります。気持ちはわからなくもないですが、ないものはないので辛抱してもらっています。そして、夏休みや冬休みなど、まとまった休みがある時には、なるべく子どもたちに家の掃除をしてもらいます。ある時、子どもがあまりにも早く掃除が終わったので、「本当にちゃんと掃除したのか?」と問うと、「ちゃんと終わった」というものですから、「じゃあ、今度はあの部屋を掃除しといて。それが終わったらこっちの部屋ね」と再び頼みました。そうすると子どもは「なんで、うちは部屋ばかりこんなたくさんあるの!」と文句を言ってきました。部屋が多くなったり少なくなったりするわけではありません。都合によって感じ方が違うのです。
空間だけでなく、時間も同じことが言えます。皆さんも、例えば法事でお経を聞いている時の一時間と、カラオケやスポーツなど好きなことをやっている時の一時間と同じに感じるでしょうか。苦痛なことをさせられている時間は長く、自ら進んでやっている時の時間は短く感じるものです。しかも、先の事にしても、時計で測れば同じ一時間だからと納得して、明日から同じに感じられるようになるかと言えば、相変わらず自分の都合でしか感じることができません。
その自分の都合でしかない〈ものさし〉をもって、他人の事も測っているのです。だから、「あの人はいい人ね」っていうのは、自分にとって都合のいい人のことを言っていますし、「悪い人」と言うのも自分にとって都合の悪い人のことを言います。決して「あの人は私の都合には合わないけど、いい人だ」とは言いません。
そして、この人間の〈ものさし〉は、自分にも当てはめ、都合のいい時は自分を認めますが、都合が悪くなると「こんなんだとつまらん」と言って自分さえ排除しょうとします。本当に問題なのは都合よくいかないことではなくて、人間の〈ものさし〉の方なのです。
その人間の〈ものさし〉が本物ではないことを教えてくださるはたらきが、如来の智慧と慈悲であります。

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